自律神経とは、「自らを律する神の経(みち)」なのだそうです。
人は善人であっても全く無罪の人はいません。人は知らず知らずの内に罪を犯してしまうものですが、その罪が積もり積もって大罪を犯すにまでに必ずその「兆し」というものが言動に現れるといわれております。
特にコロナ禍に巻き込まれておりますと「自律神経」を失調し、善き事は次第に出来難くなり、謙譲の心を忘れ、政治家からしてそうだからとして、ことさら「悪に志す」ことを正当化する者が多くなった感があります。
「悪に志す者」とは明治時代の仙人であった河野至道大人の人々に諭された言葉ですが、我々は「悪に志す者」に該当しない様に自らを律し、神の経(みち)=神の教えに倣(なら)う事が必要です。以下、河野至道仙人の「悪に志す者」とはどのような者なのかの例えを引用させていただきます。
「悪に志す者は故無くして昆虫鳥獣の命を絶ち、或いは神の照らす下をも恐れず不浄を散し、また東北に対し涕(はな)を吐き、神の道を侵凌して飛ぶを搏(う)ち走るを逐(お)い、礫(つぶて)を以て寝鳥を驚かし、穴を埋め巣を覆(くつがえ)し、胎を破り卵を破る。或いは水神の辺りに五穀を散し生血を流し、不浄の柴を以て竈火を穢し食を作る。 また、食を貪(むさぼ)り人を貪り、人を咎め天を怨み、風を訶(せ)め雨を罵り、妻妾の語を用いて父母の訓に違い、新しきを得て故(ふる)きを忘れ、人を危うくして己を安うし、良忠を隠賊して残害を発広し、己は暗くして人の諸学を謗(そし)り、人の醜きを形(あらわ)して人の才能を称すべきを抑え、人の器物を損して人の用を窮し、人の栄貴を見て人の流貶(りゅうぼう)を願い、人の富を見て人の破散を願い、人の愛する所を侵して人の非を為すを助け、人の苗稼を破り人の婚姻を破り、人を辱めて勝たんことを求め、怨みを念(おも)うて休まず、過ちを知りて改めず、善を知りて為さず、神恩を知りながら誠の道に入らず、或いは他の色の美なるを見て心に私欲を起こし、苟(いやしく)も富て驕り、苟も免れて恥じることなく、秤(はかり)を軽くしてその目方を掠(かす)り、桝を減じてその合勺を掠り、尺を縮めてその寸法を掠り、偽りを以て真に雑(まじ)え、利外の姦利を擄掠(りょりゃく、掠め取ること)してこれを商たる者の常と思い、良善を愚なりと笑い、己が姦才を慢心する痴者あり。」
また、生魂神供次第記『奏神楽の記』には、「悪に志す」=「心に繁る38本の悪い木」と称し、心から刈り取るべき悪い生きざまを伝えています。その悪い木とは、
不忠、不孝、不義、不実、不貞、不和合。 家業にまじめに取り組まないこと。 朝寝坊、けち、嫉妬、憎み、恨み。 人を悪くいう。また、嫉妬する。 強欲。意地悪。口ごたえ。無理をごり押しすること。 嫁いびり。場所によって態度をかえること。 争い、口論。癇癪。怒り。短気。 驕り。邪淫。大酒。遊芸。自慢。 つかみあい。無慈悲。嘘をつくこと。悪巧み。 陰口。わがまま。博打。人から物を奪おうとすること、等々。
古歌にも、
「我(わが)心(こころ)。鏡(かがみ)にうつる。ものならば。さぞや姿(すがた)の
見憎(みにく)かるらむ。
【私の心が鏡に映ったとしたら、さぞその姿は醜いものだろう】
この歌をよく味わい、自分の身を振り返ってよくよく反省する時が今年でしょう。
これが胸に堪えないような人は、神に見捨てられ、必ず全うな人生を送ることができないのは当然、ついには変事、禍にあうに違いありません。
五輪もGo toも先に関係者からお金を貰っちゃっているので、中止するわけにはいかなくなっちゃっているのです。
人の命よりお金が大事な人は、今生では自分の命で贖わなければなりませんが、来世でも地獄の贖いは続くことが約束されています。そのような人達の道連れとなるのは御免蒙りたいですね。
自らを律して生きることが古くて新しいノーマルな生き方だと思います。
そのためには古事記に出てくる神様に倣(なら)うことが必要です。