我々には、神の魂と変わらない一霊四魂を分かち与えられているので、この心身に付着した様々な罪や穢れを祓い清めて、本来の真心(まごころ)に帰る事さえできれば、必ず、天地(あめつち)の神の「真事(まこと)」と冥合一致できるのです。
本居宣長翁は、
「禍事(まがこと)を禊がせれこそ世を照らす 月日の神は成りい出ませれ」
と詠われており、禊祓(けいばつ)には宗教的な懺悔に似た機能が含まれています。
懺悔と祈祷というものは、あらゆる宗教的実践の中での中心的な要素ですが、神社で神前に奏上する「祝詞」の中で、「大祓祝詞」として称えているものは、一種の懺悔文に相当します。その他諸々の祝詞は全て祈祷文に属します。
祈祷は「祈り」で、「祈り」は「居宣(いのり)」または「意宣(いのり)」であり、神前に跪座(きざ)して所懐(しょかい)を宣(の)べるという意味です。
昨今の神々に対しての祈りは、あたかも商取引に似た勝手気ままの交換条件を提出して、唯々に自分の都合のよい利益を努力も無しにせがむだり、強請(ゆすり)たかりのように強要しても平気な乱暴な人もいて、恐れを知らぬというか、無礼というか、嘆かわしい人もいます。
しかしながら、ひいては一切の個人的な祈願が、すべて非礼で違法だという訳ではありません。
人々が一身一家の一企業の繁栄を祈り、子孫長久、息災延命を請い願うことも、所謂人情の自然に出づる「コトワリ」のひとつですから、これを神様に祈ることは必ずしも非礼であるということは出来ません。
なぜならば、善良な一般国民の繁栄は、ひいて日本の繁栄を増進することとなりますから、それらの祈願が「真心」より出た「真言(まこと)」の現れであるかぎり、神がそれを受納をしてくださる道理があるとのことです。
しか~し、「祈り」は本来、神々に対する請願のみを唯一の内容としている訳ではありません。
それ以上の重要な要素は、神の恩頼(みたまのふゆ)に対する、絶えざる「感謝の祈り」です。
(「分かり易い神社の話」中島清光著より)