歌人、橘曙覧(たちばなあかね)の歌に感銘を受けています。
「たのしみは神の御国の民として 神の教へをふかくおもふとき」
毎日、朝に夕に神棚に向かい祝詞を唱えていると、橘曙覧大人のような思いに近づく時(瞬間)がチョロっとでもあると、幸せな気分になります。
さらに橘曙覧大人は、人が幸せになりうる三原則として、
1、正直であれ!
2、賤しくなってはいけない。
3、身体を使うことを惜しまない。を示しています。
逆に、日々、自省の自分への戒めの言葉として、世・人を恨まず、愚痴を言わず、嘘を言わず、物欲しがらず、体だわらず(体を使うことを厭わない)であれば、十分に幸せになれるのだといわれています。
天津祝詞の太祝詞諄を宣る前に、己の異心を反省し懺悔して吐き出してからでないと、神様への感謝は伝わらないのですね。っちゅうことを改めて教えられました。
人の心は元は大神さまから頂いた曇り無き鏡でありました。それが世・人を恨み、愚痴を言い、嘘をつき、物を欲しがり、便利便利で体を使う事を厭うことによる罪・汚れで己の鏡を曇らせているのだということをお教え下さいまして、ありがとうございます。という先週でありました。
今までの勉強会で、天降言をよくもまぁペラペラと喋ってしまったことで、「こらっ!」とお叱りを受けまして早、二ヶ月。「神ながらの道」が、「神ながらの未知」となってしまった方に、お詫び申し上げます。で、またまた最後の最後として?、「神ながらの道」を「神ながらの美知(美しく知る)」べく、縄文人の心となって、わかりやすくお話させていただいて、参加者のみなさまと神様からのお許しをいただければと思っています。基本的な事のエビデンスとして、あれやこれやと資料をたくさん読ませてごめんなさい。ですが、A4の3枚となっちゃいました。肝心な大祓は6月30日にしっかりやってからの7月1日の勉強会。(どうするかなぁ)