多くの人は今や神社仏閣に詣でて、自我による頼み事をするのが当たり前と思っています。 これも、「今だけ金だけ自分だけ」で生きなければ、この世の中、上手く生きていくことが出来ない。損得勘定が当たり前で、自分さえよければそれでよいとでも思っているのでしょう。しかし、はたしてそれで本当に幸せになれるのでしょうか?
神に「まつらう」とは、神様に服従するとか、神様に従うという意味です。神様をどうこうするとか、神様に人間の自我の願いを聞いてもらうということではありません。
倭姫命の言葉に「黒(きたな)き心なくして、丹(あか)き心もちて、清く潔(いさぎ)よく斎(ゆまわ:神を祭るとき、飲食や行いをつつしんで穢れを去り、心身を浄める)り慎み、左のものを右に移さず、右のものを左に移さずして、左に廻る事も、万事違う事なくして、大神に仕え奉れ。元(はじめ)を元(はじめ)と、本(もと)を本(もと)とする故なり」とあり、神(自然の法則・宇宙の法則=善)の願う通りにあれ!ということでしょう。
自然・宇宙の公然の秘密があります。「重んずれば重くなり、軽んずれば軽くなる」宇宙真理の公然の秘密なのだそうです。 どのような真実な対象でも、これを疑ってしまえば疑わしい対象となります。また、神(自然)に親しみすぎて礼を欠く心は、軽んずる心となって疑う心となってしまいます。 ※疑う心は「魔心」で、魔心は魔縁を呼び、魔に感ずるのです。 神社で神は要るか居ないかわからないけど、世間でご利益があるといわれているから、「ものは試しだ。願いが叶ったら儲けもの」で疑いながら自我の願いを願っても、神様とはつながらず、逆に多くの強欲な参拝客が落としていった魔縁に憑りつかれて、ますます欲深くなって、自分の慾の達成に死に物狂いになって、ますます底なし沼(怒魔)にはまるのです。
人間はこの世に生を受けると同時に「鏡」の総元締めである少名彦那の神=「大司命神(だいしめいしん)」より、神心を映す鏡を授けられています。
その鏡とは、無難に無理せず幸せに生きるのが人間の使命である。授けられた鏡を魔心(自我・我慢・我執・我情)で穢す事の無ないように生きよ。奇魂(くしみたま)が本当の自分であることを忘れるな!との神の意が映された鏡です。 鏡を穢すことなく、縄文より引き継がれている、神の意のまま=神に「まつらう」ことを再認識しなければ当来の災難・天変地異から魔逃れない(免れない)こと必至でしょう。 本当の自分とは、自分の中に在る、「万物に神宿る」といわれているその神=奇魂(くしみたま)のことです。そして、その延長線上に超意識である幸魂(さきみたま)があって、さらに潜在意識である和魂(にぎみたま)があって、さらに3次元のこの世の自分の意識と肉体である荒魂(あらみたま)があります。
その本当の自分である奇魂(神の心)という鏡は肉体のどの辺に授かっているかというと、おへその奥の太陽神経叢(第二の脳)といわれる所です。
オヘソは大事というお話は、次の機会に。 (へ~そう?)