神様を祭る時、神様への捧げものとして出す物は、物を捧げるのではなく、物に添えて真実を捧げるのです。人の真実にはその人によって違うでしょうし、神様が望むものは?と、神様が喜ばれるものを推し量って、真心こめて差し上げれば、基本的には良いと思います。
他人のために何かをするような人が居なければ、社会は維持できませんし、他人のために何かをすることは、その人に崇高なる精神状態を醸し出させますし、人は他人のために何かをして上げるときに崇高なる精神の高揚を味わう事が出来ます。
人は人の気持ちをを平気で裏切るような事をしますが、神様は人の素直な奉仕の気持ちに対して、必ず何らかの反応を示してくださいます。
(※人は神様を平気で裏切るが、神様は誠意ある素直で真面目な人を決して裏切りません。)
6月29日の「かんクリ」大祓には仮設の祭壇を設けますが、前回同様、心ある参加者から、降臨される神様へ、心のこもった神饌があがることでしょう。
私の場合、神様のお気持ちを察しながら、「これ、お好きですか?」「これとこれならどちらがお好きですか?」と神様にお伺いを立ててから神饌を選びます。
最近では、神様に捧げるものに触れただけで、それに触れた手が熱く感じれば、『これでよい!』。手が何も感じなければ『あんまし~』との答えが返ってくる感じです。
(神饌で注意が必要なのは、たとえば土地の祓いなど特に昔に古墳があったような土地の祓いです。鎮魂が必要な場合もそうですが、神饌の餞別や、たとえば魚の頭の向きであるとか、しっかりとしたルールがあります。そのルールに反する場合、物理的な現象が起こり、準備している者が吹っ飛ばされたり、祭壇がグシャッとつぶれたり、本当に肝をつぶすかのごとき事が起こります。
※心がこもっていない祭主や参列者がいると、ビューっ突風が吹いて、祭壇がグシャっというのもありますよ。)
一通り神饌が揃ったら、今度は、神様からその供え物をご覧になる場合を想定し(自分が神様であったらを想定し)、神様の食欲をそそるべく、飾りつけ・盛り付けをします。
祭事がおわれば、おさがりを頂くことになります。
お酒の味が気の抜けたようにまろやかになっていたり、各神饌の味が抜けた様な感じがすれば、「神様は本当に神饌をお召しになった!ありがたい!」とまた嬉しくもなります。