(東京の田無神社の境内の木彫りの「子育て犬」)
命に限りがある人間は、今生では「神の計画」のほんのさわりの部分を見るにすぎません。また人間は今生では「神の創造の目的と結末」を本当に理解することが出来ないので、偉人たちが感得して残してくれたものを紐解いて、自ら感得できたところから神の叡智を信頼しなくてはいけないのでしょう。
大御神の人間に注がれる御心に分け隔てはありません。ただ、
人間が神にお誓い申し上げる心の厚い⇔薄いによって、神から受ける恩頼(みたまのふゆ)に深い⇔浅いができるだけなのですね。
人間だけが神に対して、見返りを求めている。彫刻の「子育て犬」が教える「人間の浅ましさ」
神が自分をこの世に出してくれたことへの「感謝」そして「身体健全の自助努力」への決意。それが祈りのワンだフル。
「お金」=「幸せ」? 神仏に対して「ユスリタカリ」のテクニックを学んだスピラーたちは神罰・仏罰を受けるのです。