以前、見知らぬ土地の小さな神社を探しておりました。
ナビにも載っていない神社です。農道を迷って走っていると、畑作業中の第一村人を発見。
私「すみませんお尋ねいたしますが、このあたりで〇〇神様がお祀りされている〇〇神社は何処でしょうか?」
第一村人「あぁ神社ならこの坂を上がったところにあるだ~。神社の名前は解らねぇが、この辺じゃぁ馬頭観音といっているだ~。」
私は心の中で「(いかりや長介風に)だめだこりゃ。」罵倒しないでにこやかに、「ありがとうございます。行ってみますぅ」とお礼して、後は直感を頼りにお目当ての呼ばれている神社を探すということはたまにあります。
神と仏、神社と寺の区別のつかない人は意外と多くて残念というか情けない次第です。
神社が仏教の寺院やキリスト教の教会の如きものでは無いことは勿論ですが、ましては新興宗教の施設や銅像や記念碑の類に非ざることも明瞭な事実です。
それは我が国の国体が他のいずれの国家にも類例を見出し得ないもので、上古の為政者たちが政策的に作り出したものでもなければ、外国の風習を模倣したものでもありません。神社自体全く独自な存在です。
それは実に、我々大和民族全体の止むに止まれぬ本能の要求から生み出された、民族の魂の表象です。
であるので、我々日本人が神社を拝するのは、自らの魂を拝することと同じなのです。自らの魂を拝して、その弥栄を祈り、同時に、自らの魂を通じて祖霊を拝し、天照大御神を拝し、天之御中主神を拝するのです。
つまり、神社を拝する事とは、日本人の魂を尊崇する事であり、神社に祈る事とは、大和魂の弥栄を祈ることです。
神社は我々日本人の魂の故郷ですね。
今年も残すところ僅か1ヶ月。今年中に各自の産土神社にお礼の御挨拶を忘れずに。
また年明けの御挨拶には、各自の産土神社へお参りされることを願います。