「禊(みそぎ)」は「身滌ぎ(みそそぎ)」の意で、本来は海水に入って全身を沐浴することでした。
「祓(はらひ)」は「拂ひ(はらひ)」で、心身に付着してしまった「ツミ」や「ケガレ」を拂(はら)ひ清める意味です。
本居宣長翁の『古事記傳(伝)』の中に、「波良比(はらひ)は自爲(じゐ)を云ひ、波良閉(はらへ)は令レ祓(はらはせ)の約言なり。』とあります。また、橘守部(たちなばもりべ)翁は、「禊と祓は別で、は惣名(そうめい)にて禊はその中の一種であるので、禊と云うべく、祓と云うべからず。禊は水辺にて行うに限れる名なり。」で、禊は祓中の一種であるといわれています。
しかし、既に伊弉諾尊の神話(神代の実話)に物語れているように、禊は何処までも自主的に心身の穢れを拂浄(ふつじょう)することであり、祓とは別のものでしょう。
6月と12月に行われる「大祓」の式はそれぞれ半年間に渉(わた)って知らず知らずの間に積った我々の心身の罪や穢れを、神々の浄化力によって、祓い清めて頂くというのがその精神ですが、各神社で行われている神前に奏上する「祝詞」の中で、「大祓祝詞」は一種の懺悔文に相当するものです。(その他の祝詞は祈祷文)
自分に当てはまる懺悔の内容は他人に言う必要はなく、具体的に神様だけに申し上げ猛省すれば、結局、大祓も自爲の波良比(はらひ)となるのでしょう。