道饗祭(みちにあへまつり) 祝詞
「高天の原に事始めて、皇御孫の命と、称辞竟へまつる。大八衢にゆつ磐むらの如く塞ります皇神等の前に申さく。八衢彦、八衢姫、久那斗と御名は申して辞竟へまつらくは、根の国、底の国より、麁び、疎び来む物に、相率り、相口会うことなくして、下より行かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守り、日の守りに守りまつり、齊ひまつれと。進る幣帛は、明かるたへ、照るたへ、和たへ、荒たへに備へまつり、神酒は�のへ高知り、�の腹満て並べて、汁にも穎にも、山野に住む物は、毛の和物、毛の荒物、青海原に住む物は鰭の広物、鰭の狭物、奥つ海菜、辺つ海菜に至るまでに横山の如く置きたらはして、進るうづの幣帛を、平らけく聞しめして、八衢にゆつ磐むらの如く塞りまして、御皇孫の命を堅磐に常磐に齊ひまつり、茂し御代に幸へまつりたまへと申す。また親王等、王等、臣等、百官人等、天下公民に至るまでに、平らけく、齊ひたまへと、神官、天つ祝詞の太祝詞事をもちて、称辞竟へまつると申す。」
(読み)
「たかまのはらにことはじめて、すめみまのみこととたたへごとをまつる、おほやちまたにゆついはむらのごとくさやますすめがみたちのまへにまをさく、 やちまたひこ・やちまたひめ・くなどとみなはまをして、ことをへまつらくは、ねのくにそこのくによりあらびうとびこむものに、あひまじこり、あひくちあふことなくして、したよりゆかばしたをまもり、うへよりゆかばうへをまもり、よのまもり・ひのまもりにまもりまつりいはひまつれと、たてまつるみてぐらは、あかるたへ・てるたへ・にぎたへ・あらたへにそなへまつり、みきはみかのへたかしり、みかのはらみてならべて、しるにもかひにも、やまのにすむものは、けのにごもの、けのあらもの、あをうなばらにすむものは、はたのひろもの・はたのさもの、おきつもは・へつもはにいたるまでに、よこやまのごとくおきたらはして、たてまつるうづのみてぐらをたひらけくきこしめして、やちまたにゆついはむらのごとくさやりまして、すめみまのみことをかきはにときはにいはひまつり、いかしみよにさきはへまつりたまへとまをす、 またみこたち・おほきみたち・まへつぎみたち・もものつかさのひとども、あめのしたのおほみたからにいたるまでに、たひらけくいはひたまへと、かむづかさあまつのりとのふとのりとごとをもちて、たたへごとをへまつらくとまをす」
(意味)
高天原にことを始めて、皇御孫のご命令としてお祭りを行わせていただきます。大八衢(いくつにも分かれている道に)に神聖な岩の群れのように塞いでおられる神様がたの前に申しあげること。八衢比古、八衢比売、久那斗とお名前はおっしゃって、お祭りさせていただくことは、「根の国、底の国より荒々しく、気味悪く来たれるものに、交わり口を合わせることなく、下から来れば下を守り、上から来れば上を守り、夜の守り、日の守りに守っていただき、清らかにしていただきたいと、捧げるお供えは、あかるたへ、照るたへ、にぎたへ、あらたへに揃えて、神酒は甕の上までいっぱいに満たせて並べ、汁にも穎にも(意味不明)、山野に住むものは獣のおだやかなもの、獣の荒々しいもの、青海原に住むものは魚の大きなもの、魚の小さなもの、沖の海草、浜辺の海草に至までを、横山のように置き並べて、奉るたくさんのお供えを、すべてにわたってお受け取りになって、八衢に神聖な岩群のように塞いでいただき、御皇孫命を堅い岩のように、永遠の岩のように祝っていただき、栄えている御代に幸いをおたまわり下さい」と申し上げます。「また親王等、王等、臣等、百官人等、天下公民にいたるまでに、すべてにわたってご祝福くださいと、神官が天の祝詞の太祝詞ごとを以って、お祭りさせていただきます。」と申し上げます。
道饗祭(みちあへのまつり)とは、 『事典 古代の祭祀と年中行事』吉川弘文館
概要:厄神・疫神が京内に入らぬよう、京城の四隅で神祇官の卜部が毎年6月・12月に行った祭祀である。祝詞では八衢比古・八衢比売・久那斗の三神を祀るとする(『延喜式』祝詞)。式次第は不明ですが、「饗(あへ)」を漢字で解釈すると飲食のもてなしをする意です。
『令集解』には京城の外から入り来る鬼魅(きみ,鬼や化け物)を京城四隅の路上で祭りもてなすことで、その侵入を防ぐ祭祀であると書かれています。
饗(あへ)を大和言葉の言霊で解すると、「話し合って折合いをつける」ということになるので、飲食でもてなして、折合いをつけて、厄神・疫神・病の奇魑に出て行ってもらう祭と考えます。
「戦う」「打ち勝つ」「暴力でぶっ飛ばす」「だまし討ちにする」的な大陸式の考え方ではありません。
平田篤胤大人は、チマタ(道の分岐点)に鎮座する神へのもてなしが本来の意だとし、(『古史伝』)、さらに祝詞では、前述の三神(八衢比古・八衢比売・久那斗)を祀ることで疫神を祓っていただくという形式になっています。
この三神は記紀(古事記・日本書紀)に見られないので、おそらく陰陽道の神道化によって発生した神々(正系ではない神々)であろうと感じます。(獣が神饌として上げられているから?)
しかし、これら三神について平田篤胤大人は、伊邪那岐神が黄泉国で伊邪那美神に追われた際に黄泉平坂を塞いだ石が八衢神であり、これを二柱に分けたものが八衢比古、八衢比売であるとする。また久那斗は、黄泉国から帰った伊邪那岐神が禊をするときに投げ棄てた杖から成った衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)と解釈されています。古史伝』)ので安心します。
『続日本紀』には、宝亀年間(770~781)に諸国に疫病が流行し、疫神祭を行うよう命じた記事が多くみられ、国家として疫病のへの対策が大事となっておりました。衛生状態も悪く人口の密集した都市の生活においては、一度そのような疫病が侵入すれば被害は大きく、また都の中心には天皇がおられることからも、予防祭祀を行う必要性が生じたのでしょう。
我が国では空港や港での検疫に祭祀も行ってほしいくらいです。
(6月の大祓勉強会でやりましょう。)