高天之原に神留り坐して、事始め給ひし神漏伎・神漏美の命以て、天之高市に八百萬神等を、神輯へ輯へ給ひ、 神議り議り給ひて、我が皇御孫之尊は、豐葦原の水穂之國を、安國と平けく知し食せと、 天之磐座放ちて、天之八重雲を伊頭の千別きに千別きて、天降し寄さし奉りし時に、 誰の神を先づ遣はし、水穂國の荒振神等を神攘へ攘へ平けむと、神議り議り給ひし時に、 諸神等皆量り申さく、天穂日之命を遣はして平けむと申しき、是を以て天降し遣す時に、 此の神は返言申さざりき、次に遣しし健三熊之命も、父の事に随ひて返言申さず、又遣しし天若彦も、返言申さずて、 高津鳥の殃に依りて、立處に身亡せにき、是を以て天津神の御言を以て、更に量り給ひて、 経津主命・健雷命、二柱の神等を天降し給ひて、荒振神等を神攘ひ攘ひ給ひ、神和し和し給ひて、 語問ひし磐根・樹立・草之片葉をも語止めて、皇御孫之尊を天降し寄さし奉りき、如此く天降し寄さし奉りし四方の國中と、 大倭日高見之國を安國と定め奉りて、下津磐根に宮柱太敷き立て、高天之原に千木高知りて、 天之御蔭・日之御蔭と仕へ奉りて、安國と平けく知し知さむ皇御孫之尊の、天御舎の内に坐す皇神等は、 荒び給ひ健び給ふ事無くして、高天之原に始めし事を、神奈我良も知し食して、神直日・大直日に直し給ひて、 此の地よりは、四方を見霽かす山川の清き地に遷り出で坐して、吾が地と宇須波伎坐せと、 進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備へ奉りて、見明むる物と鏡、翫ぶ物と玉、 射放つ物と弓矢、打斷つ物と太刀、馳せ出づる物と御馬、御酒は瓺の戸高知り、瓺の腹滿て雙べて、 米にも穎にも、山に住む物は、毛の和物・毛の荒物、大野原に生ふる物は、甘菜・辛菜、 青海原に住む物は、鰭の廣物・鰭の狭物、奧津海菜・邊津海菜に至るまでに、横山の如く八物に置き足らはして、 奉る宇豆の幣帛を、皇神等の御心も明に、安幣帛の足幣帛と平けく聞し食して、祟り給ひ健び給ふ事無くして、 山川の廣く清き地に遷り出で坐して、神奈我良鎮り坐せと、稱辭竟へ奉らくと申す
(読み) たかまのはらにかむづまりまして、ことはじめたまひしかむろぎ・かむろみのみこともちて、あまのたけちにやほよろづのかみたちを、かむつどへつどへたまひ、かむはかりはかりたまひて、わがすめみまのみことは、とよはしはらのみづほのくにを、やすくにとたひらけくしろしめせと、あまのいわくらはなちて、あまのやへぐもをいづのちわきにちわきて、あまくだしよさしまつりしときに、いづれのかみをまづつかはし、みづほのくにのあらぶるかみどもをかむはらへはらへむけむと、かむはかりはかりたまひしときに、もろもろのかみたちみなはかりまをさく、あめのほひのみことをつかはしてむけむけむとまをしき、ここをもてあまくだしつかはすときに、このかみはかへりごとをまをさざりき、つぎにつかはししかけみくまのみことも、ちちのことにしたがひてかへりごとまをさず、またつかはししあめわかひこもかへりごとまをさずて、たかつとりのわざはひによりて、たちどころにみうせにき、ここをもてあまつかみのみことをもちて、さらにはかりたまひて、ふつぬしのみこと・たけみかづちのみこと、ふたはしらのかみたちをあまくだしたまひて、あらぶるかみどもをかむはらひはらひたまひ、かむやはしやはしたまひて、こととひしいはね・このたち・くさのかきはをもことやめて、すめみまのみことをあまくだしよさしまつりき、かくあまくだしよさしまつりしよものくになかと、おほやまとひたかみのくにをやすくにおとさだめまつりて、したついわねにみやばしらふとしりたて、たかまのはらにちぎたかしりて、あめのみかげ・ひのみかげとつかへまつりて、やすくにとたひらけくしろしめさむすめみまのみことの、あめのみあらかのうちにますすめがみどもは、あらびたまひたけびたまふことなくして、たかまのはらにはじましことを、かむながらもしろしめして、かむなほび・おほなほびになほしたまひて、このところよりは、よもをみはるかすやまかわのきよきところにうつりいでまして、あがところとうすはきいませと、たてまつりみてぐらは、あかるたへ・てるたへ・にぎたへ・あらたへにそなへまつりて、みあきらむるものとかがみ、もてあそぶものとたま、いはなつものとゆみや、うちたつものとたち、はせいづるものとみま、みきはみかのへたかしり、みかのはらみてならべて、よねにもかひにも、やまにすむものは、けのにごもの・けのあらもの、おほのはらにおふるものは、あまな・からな、あをうなばらにすむものは、はたのひろもの・さたのさもの、おきつもは・へつもはにいたるまでに、よこやまのごとくやつものにおきたらはして、たてまつるうづのみてぐらをすめがみたちのみこころもあきらかに、やすみてぐらのたるみてぐらとたひらけくきこしめして、たたりたまひたけびたまふことなくして、やまかはのひろくきよきところにうつりいでまして、かむながらしづまりませと、たたへごとをまつらくとまをす
この祝詞のタイトルが怪しかったのか消されちゃいましたが、また書き直しました。バグっているように見えますが、中身は古事記に示されている内容と同じで、すごいエネルギーを感じます私は。
遷却崇神詞(タタルカミヲオシヤルコトバ)とは、神道における祝詞のひとつです。先の道饗祭(みちあへのまつり)が災禍の予防を主目的とした祀りに対して、 遷却崇神詞は災禍の原因となる神々を祀り、その心を和めて遠方に遷(うつ)すことを目的とした祀りです。
大和民族は敬神祭祀。国つ神である産土神と共に天津神を敬って祭祀を行ってきました。
今はコロナ禍で世界中が大変な目にあっているのですが、まだまだ我欲私欲で無茶苦茶になっています。物質優先のツケが回ってきたようです。
古事記がなぜエネルギーが高いというと、それは神話ではなく神代の時代の事実が書かれているからでしょう。ゲットゲットの前に感謝感謝の精神が先に出てこないと、自分が幸せに豊かになるには、まず先に他人を幸せにしてあげなければ自分の幸せはやってこないことを事実としての古事記が教えてくれています。