一切の凶の裏に邪霊あり。霊的無知の世紀末。渦を転じて福と成す。
殺傷事件・傷害事件・犯罪・政治的混迷・経済の不調・企業業績の不振・家庭の不和に至るまで、一切の嫌な事を「凶」と言いますが、その「凶」の原因は邪霊の暗躍の仕業です。
それら邪霊達は悪想念を持つ人間に呼ばれ人間に憑依して悪事をなすのですから、責められるべきは悪想念を放つ人間です。悪想念を持つことこそ穢れです。
悪想念(穢れ)を払拭する清祓(せいばつ)のことについては、わたしたちの日常生活の上でも大変重要と思われます。
本居宣長先生の『玉鉾百首』に、
「家も身も国も穢すな穢らはし、神の忌みますゆゆしき罪を」という歌があります。 意味は「家内も身体も国内も穢すことなく清浄にしなさい。なぜなら、穢れは神が忌み給う罪であるから。」のでしょう。
また、「穢れをし罪とも知らに禊がずて、默止(もた)ある人を見るがいぶせき」という歌の訳は、「なすべきことをせずにその穢れを罪とは知らずに禊ぎを行わない人を見ると、きたなくむさく思われるという意味です。
また、「罪しあらば清き川瀬に禊ぎして、速秋津姫(はやあきつひめ)にはや明らめよ」この歌の意味は、「もし穢れがあるならば、清らかな川瀬に入って身を滌(あら)い、速秋津姫神に祈請して速やかに祓い清めよ」ということです。
そして、「枉事(まがこと)を身滌(みそが)せれこそ世を照らす、月日の神は成り出でませれ」という歌は、神典に、伊邪那岐神が禊ぎ祓えの神術を行い、黄泉(よみ)の穢れを祓い清められた後に、天地に輝いて世を照らす日月の貴神(天照大御神・須佐之男命)が化生されとあるように、神典にあるそのような教えに従って、世の人も、身に穢れがある時は身滌ぎを行って速やかに祓い清めるべきでしょうという意味です。
その中の教えは、万霊万物を生み成した伊邪那岐大御神が伊邪那美大神を失うという大凶事によって黄泉の穢れに触れ給いて後、禊ぎ祓えによって完全に邪気を払拭した直後に日月の貴神が化生し、伊邪那岐大御神が「大(いた)く歓喜(よろこ)びて」というほどの大吉事が起こったという事実があります。
(神典には学ぶべき事実・神術が多くあります。ただ、実践するには厳しすぎることが多くありますが、嘆かず諦めずに追体験してゆきたいですね。)