神棚拝詞の中に、「・・・直く正しき真心(まごころ)持ちて・・・」というフレーズがあります。
誠(まこと)の心とは、「正しく直(なお)き心」であり、一般にはこのことを「正直(しょうじき)」と言われています。
また、このことを菅原道真公はその御遺誡(ごいかい)に、「およそ神事の枢機(すうき)は、正直の道心(どうしん)をもって之(これ)に事(つか)うれば則(すなわ)ち神照(しんしょう)此処(ここ)に降り、玄至(げんし)此(ここ)に遊ぶ。云々」とあり、
北畠准后(きたばたけじゅんこう)は、
「天照大神も唯(ただ)、正直(しょうじき)をのみぞ御心(みこころ)とし給へる」と述べています。
神の尊(みこと)は直ちに天地(あめつち)の「真事(まこと)」であり、その「真事」が人間に現れると「真心(もごころ)」となり、この「真心」が正しく直(なお)くそのままに言動に表れた場合に、それが「真事(まこと)となって、天地神明に通達する事になるのです。
我々が神に祈るときに、この「真心(まごころ)」より出てくる「真事(まこと)」をもって祈るのでなくてはなりません。
先日、とある政治家の選挙演説を聞いていました。演説が終わり、図らずもその満身の笑顔の政治家と「グータッチ」する羽目になりました。(チョキを出せば私の負けでした)
「先ほどの公約は、天地神明に誓って、のことであろうな!」と私は心の中で叫んでおりましたそうな。