「見えざる神々」=「真理」を、人の上に重ねて考えると、「心」に相当しますので、これを「真心(まごころ)」、「直霊(なほひ)」といいます。
「事(こと)」は又「言(こと)」ですが、「言(こと)」は、口から発する言語のみではなく、身振り・手ぶり・手つき・手まね・顔の表情・眼の動き・心の中の意志・感情を表す動作なども「言(こと)」というので、これを言霊(ことだま)といい、「真理」を表現することから「真言(まこと)」ともいいます。
「万葉集」に柿本人麻呂の有名な歌があります。
「葦原の水穂の国は、神随(かみなが)ら言挙(ことあ)げせぬ国」
この「言挙げ」というのは、人間の考えた理屈という意味ですが、「理(ことわり)」に相当するものです。
日本は「言挙げせぬ国」。屁理屈を言わない国だ!という歌です。
また、大伴家持(おおとものやかもち)は万葉集の中で、
「神代より、言い継ぎけらぐ、父母を、見れば尊く、妻子見れば、かなしくあぐし、うつせみの、世のことわりと、かくさまに、言ひけるものを、・・・」とあり、
大意は、親は子をめぐし、可愛しと思うのは決して理論的に考慮した結果、このように信じることに至ったわけではなく、止むに止まれぬ人情が自然に出た事実である。それを、人間の本能であるとか利己心の一つの形であると分析するのが人間の理屈で「言挙げ」「理(ことわり)」なのです。
我々日本人の民族性は、事実を尊び理屈を主としないのが特徴です。この「あるがままに信じる」という、純真な素直な心が、
「神隋(かみながら)ら言挙げせぬ」 ことになるのですね。
(「分かり易い神社の話」中島清光著より)