神様を拝するには、誠の心を以てしなければならないと、昔から幾多の哲人や聖者によって説かれてきたところです。
明治天皇は御製で「鬼神も泣かするものは世の中の 人の心の誠なりけり」とお示しになりました。
このように、神を拝する要訣は、ただ、誠の心を以てするという一語に尽きるのです。
この「まこと」を理解するには中国から伝わった漢字では理解できませんので、日本の大和言葉の言霊で「まこと」と「みこと」は理解できます。
日本では古来より「見ることのできない神々」を「ミコト」と申し上げると同時に、「見える神々」即ち「現人神(あらひとがみ)」としての御歴代の天皇樣をも同じく「ミコト」と称(とな)え、天皇樣の御詔勅(ごしょうちょく)を「ミコトノリ」といいます。
「尊(みこと)」「命(みこと)」の「ミ」は、「御」「美」「実」等の意であり、尊称であり美称であると同時に、物の本質的価値を意味する音です。
これは一般的に美しく、立派な、優れた事を「ミゴト」といいますが、「実」は「空」に対しては充実または実在の意味となり、樹木の葉や、花などに対して「果実」の意味になるのです。そして樹木の中心となる部分は、「ミキ」すなわち「実木」の意味です。
次に「コト」という言葉は、昔から「事(こと)」と「理(こと)」との二つの意味が含まれています。
「事」というのは「事実」であり、存在であり、現象です。「理」を詳しく云えば「コトワリ」で、事実を顕す 道理 であり、存在の背後にある 法則 であり 原理・現象の「本質」を意味します。
この「事」と「理」との一致した状態を「真事(まこと)」と云います。即ち、内部の「理(ことわり)」がそのままに歪まず、曲がらず、素直に現れたものが「真事(まこと)」です。
「見えざる神々」は真理です。言霊でいう「マ」と「ミ」は相通じる音(おん)ですので、「マコト」も「ミコト」も同じ意義となります。
(「分かり易い神社の話」中島清光著より)
「マコ~甘えてばかりでごめんね。ミコはとってもしあわせなの」でジ~ンとくるのは、「理(ことわり)」という人間の考えた理屈ではないからですね。
(「分かり易い神社の話」中島清光著より)