我々が、苔生(こけむ)す真清水にそそぎ、玉砂利を踏んで恭しく神前に額づき、柏手を打ち、遙かに神殿をおろがみまつる時、粛々として身辺に迫ってくる一脈の霊気は、自然に自ずから自分の心を正しくさせられずには置かないのです。
だから神宮では我欲をお願いすることなどすっかりと忘れて、ただただ感謝のみとなる次第です。
この神宮の無言の感化、無形の陶冶(とうや)こそは、我が国の神社に備わっている偉大なる霊的価値です。
神社が仏教寺院やキリスト教の教会の如きものでないことは勿論ですが、又、銅像や、記念碑の類にないことも明瞭な事実です。
それは我が日本の国体が他の国家にも類を見い出し得ない我が国独自なる存在であるからです。
又、神社は上古の為政者達が政策的に作り出したものでもなければ、諸外国の風習を模倣したものでもありません。
それは実に、我々日本人全体の止むに止まれぬ本能からの要求から生み出された民族魂の表象です
。明治天皇の御製には、
『いにしえの姿のままにあらためぬ 神のやしろぞたふとかりける』(明治45年)
と御詠みになられ、昔のままの姿を伝える神の社をおろがむ事は、日本の民族生命の源をしのぶ大事さをお伝えくださいました。
日本人が神社を拝することは、先祖から続く自らの魂を拝しているのです。