大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)、別名は若宮社(わかみやしゃ)にも参拝しました。参拝客が素通りしそうな神社でした。
祭神は、大直禰子・少彦名命・活玉依姫命で、三輪明神の神宮寺の一つである大輪寺(おおみわでら)として創建されましたが、神仏分離と廃仏毀釈によって廃寺とされ、本尊であった現在国宝となっている十一面観音菩薩立像を慶応4年(1868年)5月に現在の桜井市の聖林寺に移しています。そして同年、昔から十一面観音と共に祀られていた大直禰子を祭神とする若宮社となり次いで、1877年(明治10年)に大直禰子神社となりました。だから社殿は入母屋造本瓦葺きの仏堂形式かぁです。(※中は神式で仏感はありません)
日本書紀に大田田根子の名が出てきます。概略ですが、崇神天皇即位して5年位から疫病が流行り多くの民が死亡しました。また、百姓が流離し、国に叛く者がで始めました。天皇はこれを憂慮し、祭祀によって事態を解決しようとし、倭迹迹日百襲媛命に憑依して、大物主神を祀れば平らぐと神懸りし、その後、天皇に大物主神が夢懸りして現れ、その神託に従って物部氏の祖伊香色雄に命じて、大田田根子を河内国茅渟県陶邑(のちの東陶器村)に探し出して祭祀主とし、大物主神を祀らせました。その結果、国内が鎮まり、五穀豊穣して百姓が戻りその国は賑わったということが記されています。古事記には、大田田根子が神の子であることを知った理由として、母の活玉依毘売が処女で妊娠したことにその両親が怪しんで、赤土を床の周りにまきちらし麻糸を針につらぬいて、ひそかに通ってくるという立派な男の着物に刺すように教えたところ、朝になるとその麻糸は三輪だけを残して鉤穴を抜けており、それをたどっていくと三輪山の神の社にとどまっていた、という<処女懐胎伝説>が記されています。