過去の勉強会のために作成した資料を読み返しています。各回、あれも話そう、これも伝えようという思いが先走り、容易に解るという資料ではなかったなと、反省する次第です。
神様からは、『誰にでも秘密な事を与えすぎ!』と怒られて、今、体を縛られて、あまり身動きが取れません。足を縛られてとても痛くてあっちこっちに行けなくされているという感じです。そこを無理して行くとその夜、次の日はダウンです。ちょっと調子に乗り過ぎた天罰ですね。それも今月で最後です。
資料を読み返しつつ「かんながら」の道を、なんとか分かり易く伝えることは出来ないかと考えていました。先日、導かれるように立ち寄った書店で小一時間ほど立ち読みをして、この本は「良い、そうではない」「買う、買わない」の人体ボクチンフーチをしてから、一冊の本を購入していました。
本の内容に、「そうだそうだ、こういう表現が今風で分かり易いのだ!」と感心しながら読み進めました。が、最後の方で本の正体(作者の霊界での出自)を知り、「本質を伝えるには、やはりここからがスタートになるのだな」と自ら納得するやら、「本当の事を知ってもらうには難しい」と自分の能力の無さにがっかりするやらで、複雑な気持ちになりました。
木っ端天狗さんだって、カラス天狗さんだって、生身の人間とくらぶれば、その能力、霊力は高いのですが、生身が無くては正系の神様界には上がれないようです。そこで、生身を持つ人間と一体となって(憑依して)魂磨きをしようと人間に情報知識を与え、世のため人のためにと尽力するのですが、人間の方が、この世の物金の肉欲にとらわれてしまうと、向上心のある精霊たちは取りついていた人間から離れようとするあがきが人間の不幸です。
大事なのは、生きている間に真理を知らなければならないという事です。生きている間に本当の事を知っておかなければ、本当の正系の神々様の系列に繋がっていなければ、肉体がなくなってから本当の正しい世界には行き難いという事です。死んで花実は咲かないという事です。その人間を選んでしまった精霊たちも改心できなければ、また1からやり直し。マイナスからのやり直しということもあるそうです。
先祖に対しては日々の祈念や先祖の魂鎮祓で、先祖さんたちの居場所をお教えして差し上げることが大事です。(日々先祖供養の祝詞を唱えていると、自分自身にも言い聞かせているのだなぁと感じます。)
「私はこれで、あの世を知りました」♪知りたいときの謹縁パイプ
私はどのレベルからのやり直しなのか分かりませんが、肉体の生い先は短くなったけれど、魂の生い先は途方もなく長いので、焦るやら安心するやらです。
先の見えない道のりを皆生きていて、最終目標は「日の大神様と一体となる~」のですね。だったら、今のこの世を、面白おかしく生きてやろうじゃないのとなったら、生きながらの地獄となることは世の常であります。でなくて、どうせ先の長い道のりならば、今この瞬間瞬間のたとえどんなに小さなことであっても、そこに楽しみを見つけ、「あぁ、嬉し。あぁ、楽し。あぁ、幸せ。」を感じて生きるのが得策ですね。
観直し聴直しをしてみると、過去の資料に追記しなければならない事柄も出てきます。ちょっと焦ります。