明治天皇御製を拝誦させていただきます。
明治天皇御製
神祇
いつはらぬ神のこころをうつせみの 世の人みなにうつしてしがな
(口語訳:まっすぐで偽りのない神の御心を、この現実の世の人すべての心に映して、すがすがしい世にしたいものである。 M.44) 「ありがた~い。」
心
天地(あめつち)のなしのままなる世のをしえ まもる心ぞ身のまもりなる
(口語訳:大自然の摂理そのままを、世の中の教えとして守る心こそ、身の守りとなるのである M.37) 「生きる指針としま~す。」
教育基本法では、第一条において、教育の目的を、「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」と定めています。そして、第二条において、教育の目標を、知・徳・体の調和のとれた発達を基本に、自主自律の精神や、自他の敬愛と協力を重んずる態度、自然や環境を大切にする態度、日本の伝統・文化を尊重し、国際社会に生きる日本人としての態度の養成と定めています。
こうした教育基本法の規定も踏まえると、「徳育」は、「社会(その国、その時代)が理想とする人間像を目指して行われる人格形成」の営みであり、幅広い知識と教養、豊かな情操と道徳心、健やかな身体をはぐくむという、知・徳・体の調和ある人格の完成を目指す教育の根幹を担うものであると言えるとしています。って、いいこと謳ってはいても、中身が伴いませんね~。
人間の健康を維持するにあたり、食育ほ当然、徳育の大切さを感じます。
14日(土)は健康維持のための治療中心ですが、少しでも日常生活に「徳育」を心がけていただくべく、講習は出来ませんが、「徳育」の資料として、「教育勅語」「五か条のご誓文」の真解、ベンジャミン・フランクリンの自叙伝「13の徳育」を抜粋してお配りします。
我々大和民族は、古来から一貫して、一旦、天変地異や国難や、家族・一族郎党、地域住民の村などが、難渋に直面した場合に、何はさておき、神明の前に参進して、その都度ことの仔細を奏言することが慣例となっていました。つまり、神明のご加護にあやかるというよりは、むしろ神々に向かって、ご照覧を乞い奉らんと願ったのでした。
つまり、いずれの時代であれ、大和民族の子孫が、大試練に遭遇すると、老幼も先を争って産土社に参進し、民として尽くすべき道を明らかにして、その達成を明らかにして、その達成を誓うのが当然の慣行であったのでした。
民がこのようであるので、神々は民の志を憐れんで幼い子達の身の上までもご加護を垂れ給わったのです。これが徳育の恩恵でしょう。
※また、今の世の祈願のような祝詞は、仏教が日本に入ってくる以前の日本では、非礼の所作であったとのことです。
な~んでか?
元来、日本の神道というものは、仏教に見受けられるような御陀の慈悲を無辺であるとして衆生に来世の幸福を説くものではありません。又、キリスト教のように、キリストの愛を限りないものとして、迷える子羊に、その糧として日々の感謝を説くものでもありません。
日本の神道は、神随らの道であって、大自然の摂理そのままを、神の教え、世の教えとして、日本民族の子々孫々を古事記・祝詞・長老・親の後ろ姿=日々の語り部としての地位に就かしめていたのでしょう。そして、元の神道は、このようであったがために、仏教のような万巻の経文も、キリスト教の聖書も、今はやりのスピリチュアルの絵空事(ちょっと言いすぎ)も必要としませんでした。
いつはらぬ神のこころ も 天地(あめつち)のなしのままなる世のをしえ も、禊ぎ(身禊、耳禊、口唇禊)あってこそ。素直なる「やまと心」「まこと」を以てしかいただけないのであると、先師の受け売りを大いに受け売っちゃいます。
日本古来の徳育は、単純なるがゆえに、また、知識や哲学など思考の延長線上にはないので真解・体得は難しい時代になっちゃいました。
そうであっても、まず親が体得して、子々孫々に伝えていかねば、日本は滅びるかもしれません。