『太神宮参詣記(だいじんぐうさんけいき)』の一説に、
「当宮参詣の深き習いは、念珠も取らず、幣帛(へいはく)も捧げずして、心に祈る所無きを内清浄(ないしょうじょう)と云う。潮をかき、水をあびて身に汚れたる所無きを外清浄(がいしょうじょう)と云えり。内外清浄(ないげしょうじょう)になりぬれば、神の心と吾心と隔なし。既に神明に同じ、しからば何を望みて祈請(きせい)の心ある可(べ)きや、これ真実の参宮なりとうけ給はりし程に、渇仰(かつごう)の涙止め難(がた)し。」とあります。
この無願無請(むがんむしょう)の祈りというのは神人合一の境地。神聖礼拝の極致です。神仏に対しても損得勘定に長けた我々には難しい事の様です。
人の世では、他人に頼みごとをした場合には、それ相応の謝礼をするものですが、さらに、頼みごとが成就したあかつきには、謝礼に感謝の思いを乗せてお礼をするのも当た
り前です。
そういうことを他人に対して出来ない人は、神に対しても出来ない(逆かな?)ようです。内外ケガレ多き世の中なのかもね?
そう人に対して、「も~ぉ!」と思った瞬間、私の心は内清浄でなくなり、神人合一の境地から追い出されてしまうのです。
先日は、私が人生のスタートをきった時からお世話になっている産土神さん所で、「も~ぉ!」を祓っていただきました。
無願無請(むがんむしょう)の祈りの生活は、難しいのです。