2022年5月21日土曜日

「サル痘」現る!

 

(「ぼくちん、ワクチン打つよ~。痛くないからね~」の昔の絵画」)

天然痘に似た症状が出る「サル痘」の感染者がアメリカなどで報告されています。

「サル痘」はウイルスによる感染症で、中央アフリカや西アフリカの熱帯雨林で散発的にみられ、感染すると、発疹や悪寒のほか、重症化すると天然痘のような症状が出ます。致死率は1パーセントから10パーセント程度とされています。

欧州各国でも感染者が報告されていて、WHO(=世界保健機関)は引き続き状況を注意深く監視するとしています。

痘は痘でも天然痘は、オルソポックスウイルスに分類されるウイルスで、ヒトのみに感染します。 ウイルスを排泄する患者の呼気による空気感染や飛沫感染、患者の皮膚病変との接触やウイルスに汚染された患者の衣類や寝具なども感染源となります。 ワクチン接種(種痘)を受けていないヒトでの感受性はきわめて高く、不顕性感染はありません。

新型コロナウイルスを今一度考察すると、コウモリからさらに別の動物を経て人に感染したのではないか、と言われていて、中国・武漢で人への感染が確認され、さらに人から人への感染が世界に広がったとされています

続発する新興感染症、とりわけ人獣共通感染症が教えるのは何か?

世界的に知られる霊長類学者のジェーン・グドール博士は、新型コロナウイルスのパンデミックは、「人類が自然を無視し、動物を軽視した結果」として、森林破壊やアフリカのブッシュミート(食用の野生動物の肉)やアジア、中国の野生動物市場、世界各地の集約的な養鶏、養豚などを批判しています。

また、国立環境研究所生態リスク評価・対策研究室室長の五箇公一博士は月刊『中央公論』5月号のインタビューで、「根本原因は、人間による環境破壊と言っていいでしょう」「野生動物たちの棲みかを人間が破壊することにより、野生動物が減少し、棲みかを奪われたウイルスたちが新たなる宿主を求めて侵略者である人間にとりつき、新天地である人間社会で感染を拡大しているのです」と語っています。

天然痘は1980年に根絶されましたが、天然痘ウイルスは人間のみに感染します。

であるからこそ、WHO主導の「世界天然痘根絶計画」により、地上から一掃されたのですが、人獣共通感染症のウイルスの場合、人間社会からどうにか追い出しても、野生生物の中で維持され、生き続け、再び何かのきっかけで人に感染するとしたら?

「人間が食べてはいけないと決められたものは、食べてはいけません。」の教えでしょうか? 食べちゃいけないものの食物連鎖で、人間の寿命は縮まっていくのでしょうか?

いつまでたっても人間はパンデミックの恐怖から逃れられないのかも知れません。


禊祓と祈祷③「懺悔」と「祈祷」

 

我々には、神の魂と変わらない一霊四魂を分かち与えられているので、この心身に付着した様々な罪や穢れを祓い清めて、本来の真心(まごころ)に帰る事さえできれば、必ず、天地(あめつち)の神の「真事(まこと)」と冥合一致できるのです。

本居宣長翁は、

「禍事(まがこと)を禊がせれこそ世を照らす 月日の神は成りい出ませれ」

と詠われており、禊祓(けいばつ)には宗教的な懺悔に似た機能が含まれています。

懺悔と祈祷というものは、あらゆる宗教的実践の中での中心的な要素ですが、神社で神前に奏上する「祝詞」の中で、「大祓祝詞」として称えているものは、一種の懺悔文に相当します。その他諸々の祝詞は全て祈祷文に属します。

祈祷は「祈り」で、「祈り」は「居宣(いのり)」または「意宣(いのり)」であり、神前に跪座(きざ)して所懐(しょかい)を宣(の)べるという意味です。

昨今の神々に対しての祈りは、あたかも商取引に似た勝手気ままの交換条件を提出して、唯々に自分の都合のよい利益を努力も無しにせがむだり、強請(ゆすり)たかりのように強要しても平気な乱暴な人もいて、恐れを知らぬというか、無礼というか、嘆かわしい人もいます。

しかしながら、ひいては一切の個人的な祈願が、すべて非礼で違法だという訳ではありません。

人々が一身一家の一企業の繁栄を祈り、子孫長久、息災延命を請い願うことも、所謂人情の自然に出づる「コトワリ」のひとつですから、これを神様に祈ることは必ずしも非礼であるということは出来ません。

なぜならば、善良な一般国民の繁栄は、ひいて日本の繁栄を増進することとなりますから、それらの祈願が「真心」より出た「真言(まこと)」の現れであるかぎり、神がそれを受納をしてくださる道理があるとのことです。

しか~し、「祈り」は本来、神々に対する請願のみを唯一の内容としている訳ではありません。

それ以上の重要な要素は、神の恩頼(みたまのふゆ)に対する、絶えざる「感謝の祈り」です。

(「分かり易い神社の話」中島清光著より)

禊祓と祈祷②「祓(はらい)」

祓は、素戔嗚尊が、高天原において、天照大御神の神田(かんでん)を荒し、また、神聖(しんせい)な斎場(さいじょう)を穢すなどの天津罪を犯したために、群神会議(ぐんしんかいぎ)の結果科せられた一種の刑罰です。

素戔嗚尊は、その罪の代償として千位(ちくら)の置戸(おきくら)の祓具(はらへつもの)を出し、さらに手足の爪や髭をも抜き取られ、ついには高天原を追放されたのです。

この手足の爪や髭を抜き取るというのは、罪に穢れた身体の一部を除去するためですが、後に身体に苦痛を与える体刑となります。

また、千位(ちくら)置戸(おきくら)の祓具(はらへつもの)を出すという事が、罰金刑の形になりました。

つまりは、祓というのは主として「ツミ」に属する行為に対して、他からこれを祓ってもらう儀式です。

禊というのは主に「穢」に染まった場合に、自らこれを払浄する方法です。神は本来、清きものであり、穢れ無きものですから、これを拝するものは、常に心身の浄潔を保たなければありません。古代は神を拝するときには必ず禊ぎをして身体を浄めなければならない決まりでした。

伊勢神宮に流れる五十鈴川は、その禊ぎ川または祓い川とよばれていますように、今日、各神社に設備されている御手洗の水は、この禊ぎ川の代用で、「手水の呪」の

「かきながす大山本の五十鈴川 八百万代の罪は残らじ」と唱えてから

口を漱ぎ手を洗うのは、太古の禊の名残、古い形の禊の単純化された形です。

(「分かり易い神社の話」中島清光著より)

 

禊祓と祈祷①「禊(みそぎ)」

6月は夏越しの大祓です。勉強会の参考資料にしてください

禊ぎの起源は、伊弉諾尊が、筑紫日向の橘の小戸(おと)の阿波岐原において、黄泉国(よもつくに)の穢れを禊給ひ、その清浄の心身より、天照大御神を初め、三柱の貴子(うづこ)を得給ひし御事績(ごじせき)に初まり、祓(はらい)は素戔嗚尊が、高天原において天津罪(あまつつみ)を犯し給ひし時、八百万の神等によって科せられたのを初めとすると伝えられています。

「禊」は「身滌ぎ(みそぎ)」の意味で、本来は海水に入って全身を沐浴することです。

「祓(はらい)」は「払(はら)い」であり、心身に付着した「ツミ」や「ケガレ」を払い清める意味です。

さらには、本居宣長翁は「古事記伝」の中で、

「禊(みそぎ)」は自主的に行うものであり、祓は他動的に科せられるものであると言われています。

古事記の伊弉諾尊の神話に物語られて居るように、禊(みそぎ)は何処までも自主的に心身の穢を払浄することであり、祓とは別なものです。

(「分かり易い神社の話」中島清光著より)

 

 

2022年5月14日土曜日

神拝の心得(4)神の分霊(わけみたま)である人魂

我々日本人は、すべて神々の後裔(こうえい)であり、誰しもが神々の血肉を受け継いで来ているばかりでなく、一霊、四魂も又同じように神々より分け与えられているのです。

このことを「直霊(なほひ)」といい、「真心(まごころ)」ともいうのですが、不幸にして我々人間は、複雑な日常生活の便利、安易、享楽、流行などの影響を受けて、本来は明浄である霊魂に、思わぬ汚染を被ることも日常的に起こります。

この種の汚染の事を「ツミ」または「ケガレ」といいます。「ツミ」とは、「ツツム」の意味で、すべてのものを隠蔽するところから起こったなです。

また、「ケガレ」ほ「木枯(きがれ)」「気枯(きがれ)」「怪我(けが)」などと共通の意味を有する言葉で、生々の気を阻害するものをいいます。

人心も又、日常の煩雑な生活に追われている間に、知らず知らずその真心の表側に「ツミ」「ケガレ」の汚染を受けて、本来は明浄、神明と変わらない立派な魂を、暗澹(あんたん)たる曇り多きものとしてしまうことが多いのです。

だからこそ我々は、常に何らかの方法によって、この真心(まごころ)の面を覆う塵埃(じんあい)を払拭し、これを排除することに努めなければなりません。

我が国では、神代依頼、禊(みそぎ)又は祓(はらひ)という清めの式があって、人々の心身の罪穢を祓い清める習慣となっています。

(「分かり易い神社の話」中島清光著より)


神拝の心得(3) 「真言(まこと)」と「正直(しょうじき)」

心の誠から自ずから現れた言葉で、「事」と「理」が融合一致したものを「真言(まこと)」いいます。

これに反し、誠ならざる心から出た言葉を「枉言(まがごと)」「曲言(まがごと)」「凶言(まがごと)」といい、その意味は、真事を枉(ゆが)め、曲げて、凶(あ)しき言葉といいます。

この「枉(まが)」に対して「正(せい)」、「曲(きょく)」に対して「直」と言う言葉が相対します。

誠の心とは、「正しく直(なほ)き心」をいい、一般にこれを「正直(しょうじき)」と言われています。

北畠親房は、「天照大神も唯、正直をのみぞ御心とし給へる。・・・」と述べられているように、神の尊(みこと)は直ちに天地(あめつち)の「真事(まこと)」であり、その「真事(まこと)がの人間に現れたのが「真心(まごころ)」となり、この「真心(まごころ)が、正しく直(なほ)くそのままに、言語や行動に表れた場合、それが「真言(まこと)」となって、能く天地神明に通達することになるのだそうです。

このことをよく言い表した歌に、

「皆人の祈る心のことわりに そむかぬ道を神も受くらむ (藤原爲守)」があり、

神に祈るものは、「真心(まごころ)」より出る「真言」をもって祈らねばならないと教えています。

(「分かり易い神社の話」中島清光著より)

 

神拝の心得(2) 「真心」と「直霊」

「見えざる神々」=「真理」を、人の上に重ねて考えると、「心」に相当しますので、これを「真心(まごころ)」、「直霊(なほひ)」といいます。

「事(こと)」は又「言(こと)」ですが、「言(こと)」は、口から発する言語のみではなく、身振り・手ぶり・手つき・手まね・顔の表情・眼の動き・心の中の意志・感情を表す動作なども「言(こと)」というので、これを言霊(ことだま)といい、「真理」を表現することから「真言(まこと)」ともいいます。

「万葉集」に柿本人麻呂の有名な歌があります。

「葦原の水穂の国は、神随(かみなが)ら言挙(ことあ)げせぬ国」

この「言挙げ」というのは、人間の考えた理屈という意味ですが、「理(ことわり)」に相当するものです。

日本は「言挙げせぬ国」。屁理屈を言わない国だ!という歌です。

また、大伴家持(おおとものやかもち)は万葉集の中で、

「神代より、言い継ぎけらぐ、父母を、見れば尊く、妻子見れば、かなしくあぐし、うつせみの、世のことわりと、かくさまに、言ひけるものを、・・・」とあり、

大意は、親は子をめぐし、可愛しと思うのは決して理論的に考慮した結果、このように信じることに至ったわけではなく、止むに止まれぬ人情が自然に出た事実である。それを、人間の本能であるとか利己心の一つの形であると分析するのが人間の理屈で「言挙げ」「理(ことわり)」なのです。

我々日本人の民族性は、事実を尊び理屈を主としないのが特徴です。この「あるがままに信じる」という、純真な素直な心が、

「神隋(かみながら)ら言挙げせぬ」 ことになるのですね。

(「分かり易い神社の話」中島清光著より)

 

神拝の心得(1)「まこと」=「みこと」とは

 

神様を拝するには、誠の心を以てしなければならないと、昔から幾多の哲人や聖者によって説かれてきたところです。

明治天皇は御製で「鬼神も泣かするものは世の中の 人の心の誠なりけり」とお示しになりました。

このように、神を拝する要訣は、ただ、誠の心を以てするという一語に尽きるのです。

この「まこと」を理解するには中国から伝わった漢字では理解できませんので、日本の大和言葉の言霊で「まこと」と「みこと」は理解できます。

日本では古来より「見ることのできない神々」を「ミコト」と申し上げると同時に、「見える神々」即ち「現人神(あらひとがみ)」としての御歴代の天皇樣をも同じく「ミコト」と称(とな)え、天皇樣の御詔勅(ごしょうちょく)を「ミコトノリ」といいます。

「尊(みこと)」「命(みこと)」の「」は、「御」「美」「実」等の意であり、尊称であり美称であると同時に、物の本質的価値を意味する音です。

これは一般的に美しく、立派な、優れた事を「ミゴト」といいますが、「実」は「空」に対しては充実または実在の意味となり、樹木の葉や、花などに対して「果実」の意味になるのです。そして樹木の中心となる部分は、「ミキ」すなわち「実木」の意味です。

次に「コト」という言葉は、昔から「事(こと)」と「理(こと)」との二つの意味が含まれています。

「事」というのは「事実」であり、存在であり、現象です。「理」を詳しく云えば「コトワリ」で、事実を顕す 道理 であり、存在の背後にある 法則 であり 原理・現象の「本質」を意味します。

この「事」と「理」との一致した状態を「真事(まこと)」と云います。即ち、内部の「理(ことわり)」がそのままに歪まず、曲がらず、素直に現れたものが「真事(まこと)」です。

「見えざる神々」は真理です。言霊でいう「マ」と「ミ」は相通じる音(おん)ですので、「マコト」も「ミコト」も同じ意義となります。

(「分かり易い神社の話」中島清光著より)

「マコ~甘えてばかりでごめんね。ミコはとってもしあわせなの」でジ~ンとくるのは、「理(ことわり)」という人間の考えた理屈ではないからですね。

(「分かり易い神社の話」中島清光著より)


分り易い(本当の)神社の話

 

神社の事、神様の事、神拝の事、我々の先祖の事などを正しく伝えてくれる書籍や情報は、残念ながら現在、それらと出会うことはほとんど叶いません。

著名な歴史家・神道研究の第一人者などと言われている方々もそもそも間違った歴史が研究の根底にあります。その間違った歴史を通して、神道の実像を解き明かすことはできませんし、「神仏習合によってこそ神々は生きのびてきた」などととんでもないことを平気でいえるのでしょう。

先の「なぜ神社を崇敬するのか」(1)(2)(3)の出典は、昭和14年(1939年)今から83年前に、文友堂書店から発行された「分かり易い神社の話」中島清光著 からの引用です。

旧漢字旧仮名遣いの書籍で、私が学生の頃『君ぃ、世界の文明は、この日本から広がったのだよ。日本を知り、世界を知るには、日本の神様を知らなければならない。日本の神様は記紀(古事記・日本書紀)から学ばなければならない。神社のことは、まずは、この本(分かり易い神社の話)が良くまとまっているから、よく理解したまえ』と恩師から紹介いただいた本です。

こういう希少な本は、戦後多く失われていますが、じっくり古書店で探せば出会うことでできるかも(ヤフオクで8,000円で落札されてました)

この本のすべてを紹介できませんが、大切なところを少しでもお伝えしようと思います。

なぜ神社を崇敬するのか?(3)

 

我々は神社を拝しておりながら、自らの魂を拝していると言うことは、自らの魂を拝して、その弥栄えを祈ると同時に、自らの魂を通じて祖霊を拝し、天照大御神を拝し、天之御中主神を拝するのです。

つまり、神社を拝する事は、日本人の魂を尊崇する事であり、神社に祈ることは、日本(やまと)魂の弥栄を祈ることです。

誰一人の漏れもなく、誰でも自分の魂を愛し、かつ、これを貴ばない人がいるでしょうか?

結局、我々は祖国=我々の先祖達の限りない弥栄を切願するが故に、神社を尊崇氏、かつ、神社を懐かしむのでしょう。

神社こそは、我々日本人の魂のふるさとです。

(産土神社の裏手には産土神社の幽宮があり、その幽宮には先祖が住まわれています。死んだらお寺なんかにも、お墓なんかにも、いません~。というのは本当です。)

2022年5月11日水曜日

なぜ神社を崇敬するのか?(2)

我々が、苔生(こけむ)す真清水にそそぎ、玉砂利を踏んで恭しく神前に額づき、柏手を打ち、遙かに神殿をおろがみまつる時、粛々として身辺に迫ってくる一脈の霊気は、自然に自ずから自分の心を正しくさせられずには置かないのです。

だから神宮では我欲をお願いすることなどすっかりと忘れて、ただただ感謝のみとなる次第です。

この神宮の無言の感化、無形の陶冶(とうや)こそは、我が国の神社に備わっている偉大なる霊的価値です。

神社が仏教寺院やキリスト教の教会の如きものでないことは勿論ですが、又、銅像や、記念碑の類にないことも明瞭な事実です。

それは我が日本の国体が他の国家にも類を見い出し得ない我が国独自なる存在であるからです。

又、神社は上古の為政者達が政策的に作り出したものでもなければ、諸外国の風習を模倣したものでもありません。

それは実に、我々日本人全体の止むに止まれぬ本能からの要求から生み出された民族魂の表象です

。明治天皇の御製には、

『いにしえの姿のままにあらためぬ 神のやしろぞたふとかりける』(明治45年)

と御詠みになられ、昔のままの姿を伝える神の社をおろがむ事は、日本の民族生命の源をしのぶ大事さをお伝えくださいました。

日本人が神社を拝することは、先祖から続く自らの魂を拝しているのです。 

なぜ神社を崇敬するのか?(1)

 

「何事の坐しますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

 この歌は有名な歌人西行が、伊勢神宮に参拝した祭の詠歎(えいたん)の歌と伝えられています。

金光燦然な尊像を安置しているのでもなく、絢爛豪華な殿堂でもなく、古朴で簡素、一片の粉飾もない白木造りの神殿が苔生(こけむ)古い杉の梢に囲まれていて、高天原に千木高(ちぎたか)知らす、神宮の雰囲気は、まさに古神道精神の精髄です。

経典無く、教主を必要とせず、あれこれと言挙(とこあげ)せず、直接に人々の魂に迫る神気は、西行に限らず、神宮に参拝された人々は、理由の解らない涙に咽(むせ)ばしめる感動を得るでしょう。

この神宮の雰囲気から感得される森厳な内にも何となく懐かしく、畏(かしこ)みつつも喜びに満たされた朗らかな楽しい気分は、神社の大部分に共通するとても特殊な気分です。

毎日、禊なのですが


「神通は信と不信にあり」で、神通の第一義は神を信ずることなのです。

そして「禊」の第一義は、神の存在を自ら確認することにあるのだそうです。

そして、神の実在を確認できると、

①自ずと神に対して恥じない行動が取れるようになり、

②神様は何でもお見通しであると解ると、

③自らの言動に対して、十分に考えてからになるのだそうです。

例えば、ウソは言わない・他をだまさない・自らを欺かないなど、思慮深くなるのだそうです。

そして、どんなに怒りたくなっても、決して怒らず、争わず、妬んだり、恨んだりすることも避け、必ず一歩下がって、自分に落ち度は無かったかと省みることができるのだそうです。

私の場合、「どんなに怒りたくなっても、決して怒らず」のスタートから失格。

毎日が禊で懺悔の大祓ですが。なかなか身も削がれません。ブ~。

スクワット(以前に購入したスクワットマジックで)しているのに、濁点(穢れ)が付いて、スグ、ワット(# ゚Д゚)になります。 

つゆ知るべし

 

(カエルが苦手な方、ごめんなさい)

12日(木)から14日(土)にかけて、本州付近に前線が停滞し、活動が活発になるでしょう。九州から関東の太平洋側を中心に、大雨や荒れた天気になりそうです。前線の活動の程度によっては、警報級の大雨の恐れがあります。大雨への備えは早めに行い、最新の気象情報にご注意ください。だそうです。取り急ぎ。

アマガエル:アマガエル科アマガエル属に属する小型のカエル。 体長は約3~4センチで、樹上で生活する。あまごいむし・あまごいびき・あまびき、とも言われていた。

アマガエルはトノサマガエルなどと同様に「青蛙(アオガエル=緑色の蛙の総称)」の一種で、体色は基本的に緑色ですが、土の上などにいると茶色っぽく変化します。(物干しに居ましたが銀色にはなれなかったようです)

アマガエルの皮膚は湿度に敏感で、夕立など雨の降る前に雄が高い声でよく鳴くことから「アマガエル(雨蛙)」と呼ばれるようになったとされています。

小さいころ、アマガエルの目は「かわいいなぁ」と思っていましたが、よくよく見ると、

目は半眼、薄開き、修験者が雨乞いで念力集中のような目つきはかわいくはありません。

沖縄県では5月4日に梅雨入り。

今年の梅雨は長くなりそうですが、雨量だけでなく大きな揺れにも十分な対策と心構えが大事です。

「雨アメ 揺れユレ、母さん、大変じゃ!」じゃぁないことを祈ります。

2022年5月3日火曜日

見てござる 見て居らせられる

 

天照大御神様は日の神(太陽神)です。太陽は、地球上のあらゆる生命を育む偉大な存在です。だからこそ、「お天道さまは見てござる」という言葉のとおり、天に対して恥ずかしい行いをしてはいけない、と日本人は自分を律してきたのです。日の神は、天の摂理=道徳の規範もしめしている存在なのです

以前引いた神籤の「神の教」を日々の生活の指針にしています。(小吉でしたが)

「何をするにも神様相手、人が知ろうが、しるまいが」 

神様が見ていらせられる。神様は、言う事、なす事、思う事、見ぬき見透しに、心の奥の底までも、見て居らせられる。人は知っても知らないまでも、神様を御相手に、世のため、清い正しい心で尽くしましょう。神様は必ず正しい者に御見方下さる。という意味です。

自分の希望を叶える爲に、損得勘定で他人を将棋のコマのように扱う人物がいます。人だけでなく神仏や眷属神をも損得勘定で利用します。その人の要求に対応する神仏は正系(仏は正系もなく、すべて亜流ですが)ではない天狗さんや龍さん、狐さん達です。

自分の都合の良い能力を利用しますので、一時は財を成したかのようにウハウハとなりますが、長くは続きません。あれよあれよと現生での心得違いを諭され自力以外で得た財はすっぽりと取られます。

そのような悲惨な状態にならない正しい心得は、「成る成らずも神に任せる心、早き遅きも神に任せる心、この世も後の世も神に任せる心。」

欲望を捨てた一点の曇りもない清く明(あか)き祈りこそが、幽顕の両界を貫いて神界の神々に伝わる祈りです。

「見てござる」「見て居らせられる」で人生を処す。何と心強いことでしょう。

12月の予定「かんくり 健康回復支援館」

  ー 12 月の「かんくり」健康回復支援館の予定 ー 12月  1日( 日 )  AM9:00 ~地域防災訓練参加のため、治療は10:00より承ります。 12月  7日( 土 ) 終日 健康回復のミーティング(横浜市内) 12月  8日( 日 ) 横浜市内~移動後、治療...