2021年5月27日木曜日

人間関係の難儀を解消

 

自分や自分が担当している仕事に対して、それを傷つけるような行為や知ったかぶりで非難するような言葉を投げかけられてきても、その人を非難してはならないのです。

また、心の中で、その人に罰を与えてやろうなどとも思うだけでも自分がケガレを受けてしまいますし、罰によってその人が自分の理想とする人に変わることは決してないようです。

なぜなら、人は許されることによって、また、認められることによってしか変わらないからです。上司であれ同僚であれ、夫であれ妻であれ、相手の行いや言葉を許容すると、相手は変わるのです。

相手を非難すると真っ先に自分の心がケガレてしまいます。

勇気をもって如何なるものに対しても、清純な愛の心を元として持するように常に心掛けると、より良き生活と幸福を招来することが出来るようです。

相手は、どうされることで喜ぶか?を察して、とりあえず相手の希望を叶えてあげてみたらいかがでしょうか。

『何事でも相手の自発的な心の働きに任せておくことが、神意に沿うことであり、結構なことであ~る』だそうdす。

(私は毎日大祓。反省反省のトホホギス)

2021年5月26日水曜日

病気が治る人直らない人

 依頼された治療が全て成功、完治することはありません。人間が自ら招いた病気まで完治させるという神様はおられません。

そういう人には反省という完治に至るチャンスを与え、自分が病気になった原因を理解するに至るタイミングで自然に症状が改善されていきます。

病気の一つの例が、他の例の前例とはなりません。同じ病名症状でもあっても一例一例が全く別個のものとして考えなければなりません。

理由は、一人一人の生き方、考え方、他人に対する処し方が異り、前世から引きずってきた癖や先祖との因縁も今生での因縁も異なるからです。

神様がなさる治療のお手伝いをさせていただいて、全体の20%くらいの人がすぐには治りません。

これら20%に入る人は、「寿」という生まれてから死亡までの健康を支配している法則(決定づける運命だとか神罰など)で制約を受けている人を除くと、次のような人が治りにくい、治しがたいようです。

①健康の法則に従っていない人

②病状が固定してしまい身体の習慣と化してしまった人

③恐怖心で、患者が治療の効果を認めない人(※神仏・あの世を信じない人)

④他人の同情を当てにしている人

⑤想像上の病気を持っている人などです。

以上のように、全く直せないような人も含めて、病気を治す責任者は、医者でも治療家でも、神様でもありません。

全く、患者本人の責任の名において健康になっていかなければならないということが分かります。

先にもあるドクターが言ったように、病を医するのは自然(法則・真理・摂理=神様)であるとおりです。

ジャラでチャラ、お金でリセット

 

今起こり来ている様々なよくない現象・事象は、人間の考え方、生き方の大変革を求めているかのようです。

スピで言う金運とは、お金の集め方の指南ですが、スピの信者・信奉者が金運に恵まれたということはなく、夢を見ることができて良かったわね、というくらいでしょうか。(※夢を描いて落っこちた人は数知れずですが。)

今起こり来ている惨事、こらから起こりうる大惨事が示すものは、お金の集め方とお金の使い方についての警告でしょう。

金や富というものは、人を喜ばすことによって、その報酬として与えられるもの。人に親切をする事によって入るものなのだそうです。

人をだましたり苦しめたり、人の目をごまかして得た金銀財宝は、自分・家族の健康をはじめ、多くの代償を伴います。

色仕掛けで得た金や財や、仕掛けられた相手の家族を悲しませて得た金や富には、取ったら取られるという単純な法則だけでなく、倍返し何倍返しで清算しなければならないようです。

シナに言わせると、騙す方は悪くない。騙される方が悪いのだという理屈をいうのですが、騙す方が幸せになれる世の中はいつまでも続くことはないようです。

人をだまして相手やその家族を悲しませ罪は、天津罪・国津罪として、今生でもあの世でもお仕置きを受け償わなければなりません。

騙される方もケガレを受けます。欲を出しすぎた落ち度があるからです。今までの行い考え方を反省して、詫びを入れると騙された人の穢れは払われます。

そして、スピや新興宗教の神仏のいうマヤカシの教えではなく、正系の神々の教えに従って、正しく豊かになる道を選ぶのか、これからの運命の分かれ道なんですね。

悪い狐や低級テング・低級龍神を信仰する経営者は結構いるようですが、夢~!まぼろし~!を魅せられた経営者の成れの果ては哀れなものです。

(口はとんがり、目は吊り上が、くだらないことをチャラチャラと。あの世で木に縛り付けられて見世物になっています。着物の袂が破れ、そこから金貨銀貨銅貨が足元に零れ落ちていて、足でかき集めようとしていますが届きません。そこで通りすがりの私にうまい事を言って落ちたお金を拾わせようとチャラチャラとうまいことをあれこれ言ってきます。顔に知り合いの面影はありましたが、狐のような顔をしていました。哀れbでしたが、物金への執着が抜けなければ助けられないとのことでした。        本人の希望はロープが解け自由になるということよりも金銀財宝を握りしめていて本望なのでうから。)

     

「幸せ」から「仕合せ」へ

神仏などに奉仕するとか、至上のものとして従うことを、神仏に仕えると言いました。

昔は仕(つか)え合(あ)うと書いて「仕合(しあわ)せ」を意味しました。

自分がしたことを相手が分かってくれる、喜んでくれたら神に人に仕えた甲斐を感じました。

他人から受けた行為や言葉や、尽くしてくれたことを感謝でき、満足できれば、自分にも相手にとっても喜びです。

相手に感謝されれば、喜んでもらえれば自分は特に嬉しい、仕合せを感じます。

ラッキーとかハッピーという棚ぼた的な自分にとっていい出来事とは、全く異なります。

我利我利亡者や神仏に対してもユスリ・タカリを当たり前のように考えている人には独りよがりの幸せしかありません。

仕合せとは、魂の喜びで、自分がした行為が役に立ち、他人に喜ばれることをいう。

相手(神様・相手)に喜んでもらえて初めて自分も仕合せになれるのですね。

2021年5月25日火曜日

病は自分のせいなのだから

 

コロナに感染して呼吸困難に陥った人を遠隔で観ると、肺そのものも委縮していますが、胸郭(胸椎・肋骨・胸骨)の可動域が無くなり、肺を包んでいる膜とが肺との間の潤滑液が無くなって、肺と膜が癒着しているのを観ます。

この現象はコロナに限らず、普通の肺の炎症にも、喘息の人にも見られます。

『人との意見の対立や、人の意見を素直になって受け入れるということを拒むという、自然の摂理に逆らうとにより起こる』と教えられました。

緊急治療で胸郭を緩め、肺と肺の幕の間の石灰化し密着したところに再び液を通してあげるとと呼吸がスムースにできるようになります。さらに本人の頑固さが無くなり、本人が好んで朝日の爽やかな空気を肺に取り入れるようにと意識し努力すると、順調な呼吸が復活し持続します。

ギリシャの名医ヒポクラテスは「それは患者の苦しみを和らげている時によく現れた。病んでいるところに手を当てると、あたかもその手に不思議な力が宿り、それが痛みやさまざまな不純物を引きずり出し、剝がしとっているかのようであった。」と述懐しています。

あるドクターは、「病気を医するのは自然である」と達観されていますが、ヒポクラテスの治療も、あるドクターの感じるところも、人間が病を治すのではなく、目に見えぬ自然のエネルギーそのものがある意思をもって直すのではないかと感じるのです。

われわれ人間は、この自然という天地間の一物である以上、天地自然の法則に背くことはできないのは当然の理です。

その天地間の万物は、皆、規則正しく順序・秩序なる真面目な活動を連綿と繰り返しているのだから、人間も規律正しく順序良く真面目に活動することが、天地自然の大いなる法律であり、大憲法であり神理、天津祝詞の太祝詞諄です。

しかし、自然の法律・法則に背き、不規律や不秩序で不真面目であれば、天地万物に対する反逆者であり神理・真理の破壊者です。

そのような人には制裁が加えられるのは当然の報いです。(制裁とは、貧困・病気・他人に疎まれ孤独・早死・事故災害)人間も規律のある真面目な生活をするのが人生の本質です。

善なる習慣、悪なる習慣が人間一生の浮き沈みの分かれるところと言われています。

「意識を変えよ!」とは、「悪習慣・悪癖を直せ!」ということです。神我一体・自然合一・宇宙意識との合一の境地です。

ある神様も、『病気や不運は本人の悪想念によって生ずる。自分のやった行為・しゃべった言葉・何を思ったかで、病気になったり、健康になったり、運や不運もやってくる』 『特に、人の事を顧みず 、自己中心的に物事を捉えたり考えたりするわがままな性格や習い性が病気や不運の原因である。』 『病気を治すことや不運を改善することは、本当から言うと本人以外にはできないのだよ。本人が生き方や考え方を直さぬ限り方法はな~い。』とお教えくださいました。

天から授かった寿命を生命力といいます。その生命力を縮める心は、怒り・憂い・悲しみの心なのだそうです。特に、猜疑心など悪心を起こさない様に自分の心をよく注意をして、悪霊たちの襲い来る動機を作らないように、日々心掛けることです。

汚倫被っ苦ぅ 屁んでる変でる バッハッハ~

 

麻〇氏は日本の義務教育について、「きちんとした教育はもう小学校までで十分じゃないかと。中学まで義務にする必要があるのかと」と発言していたんだそうですが、正しい基礎教育は日本の修理個性・生成発展の原動力となりうるのに、無知で阿っ呆・あっ騒な発言には、いつも本当にびっくりさせられます。

彼の発言に感化され誘導される国民は皆無であると信じたいですが、国民を不安にさせ今以上に生活を悪化させる罪は重く、あの世の彼の姿は「唖の相」と観え、自分の意見も言えない苦しい贖いの生活を強いられるのだそうです。

「いつまでマスクするの?」じゃなくて、「ず~っと斜めな汚口(おくち)にチャック!」ですね。

またビックリ。汚れた倫理で苦を被るの汚倫被苦(オリンピック)

「五輪の夢を実現するために誰もがいくらかの犠牲を払わないといけない。アスリートは間違いなく彼らの五輪の夢を実現することができます」とは、IOCのもう、バッカ(ハ)じゃないの?さんの発言です。

皇祖皇宗の神々・日嗣の天子様のためならばの遺伝子を持つ大和民族は、利権利権で自分の事しか考えないような人の為になんか、犠牲を払うわけないでしょ。

屁ンデル変デル バッハッハ~

2021年5月19日水曜日

「あはれ あなたのし・・」笑福・攘災・招福」の秘文

 

 あはれ、あなおもしろ、 あなたのし、 あなさやけ、 おけおけ

『古語拾遺』の中に、「神懸り」の際に、神々が大いに喜び踊り、口々に「あはれ、あなおもしろ、あなたのし、あなさやけ、おけ」と囃(はや)したと記されています。

「あはれ」とは「天晴れ」、天が晴れて一点の曇りなき青空のように陽光が溢れ、すべてが光に包まれ世界が明るくなること。

「あな、おもしろ」とは「ああ、面白」、神の光に照らされて顔が輝いて明るい表情。「面が白く」なり、喜びに包まれて輝くこと。

「あな、たのし」とは「ああ、手伸し」と喜び勇んで自然に「手が伸び」、踊り出すこと。(手放しで喜ぶ)には「手延(たの)し」手を延べるのは人を助け貢献する深い意味。そして仲間との助け合い喜びを分かつこと。さらに自信を持てるだけの働きをして本当に手伸しいくて、手延しい⇒楽しい=仕合せとなる。

「あな、さやけ」とは草木も一緒にその喜びの気が当たり全体に沸き起こり、揺れ動くこと。 

「おけ」もまた草木や植物とともに新鮮なすがすがしい気が自分と一体となって、そよ

ぎ、靡(なび)き、大きく膨らんで揺れ動くこと。 

この呪文・秘文は太陽の死と復活と、笑いによる生命力の更新の事実、神人一体となって喜ぶ様なのかなぁと思います神人一体(神懸りと笑いによる「笑福攘災招福」、すなわち「岩戸開き」の業(わざ)こそが神代の事実で、天照大神が天の岩戸からお戻りになり、世界が明るさを取り戻した際、天の岩戸の前で神々が歌い踊って喜ぶ場面の掛け声(秘め事・神術)なのでしょう。

毎朝唱える大祓詞の途中でひそやかに唱える太祝詞淳の後に、「あはれ、あなおもしろ、 あなたのし、 あなさやけ、 おけおけ」と発声すると、生命力が更新される感じがします。

日拝の後にも唱えます。大和言葉の言霊はすごいです。(※漢語で言霊を解すると意味は分からなくなる場合があります。)とにかく、自分の体は言霊の増幅器。自らを振るわせて声を発してみるといいです。

「お~れは、ジャイアンアンアンアンアン」・・がなり立ててはいけません。

そら豆ご飯

 

「そら豆」を頂きましたので早速、神饌な新鮮そら豆を神床におはします神々様と祖霊舎のご先祖様に献上させていただきました。

そら豆の栄養価は素晴らしく、

①そらまめはカリウムを豊富に含んでいるのでナトリウム(塩分)を排泄する役割があり、高血圧に効果があり、 

②そらまめのマグネシウム、リン、鉄分などのミネラルは、血圧を調整する働きや、骨の成分にもなり、イライラの解消にも効果があり。 また

③ビタミンB群を多く含み、中でも消化液の分泌を促すビタミンB1や、粘膜をつくるビタミンB2、そして、血行をよくしたり、エネルギーの代謝を促すナイアシンなどのビタミンB群が豊富であり、 

④そらまめに含まれるビタミンCは、風邪の予防や疲労の回復、肌荒れなどに効果があるとのことです。

「そら」は空。大きい広い空のような大きな豆。で、「そら豆」なのでしょうか?

英語ではBroad Beenを直訳すると(広い 豆)。空は広いので、日本では空豆かぁと思いきや、

【公益財団法人 日本豆類協会】さんのホームページに「そら豆」の解説を見つけましたので以下に引用します。

「そらまめの原産地や祖先種はよく分かっていませんが、北アフリカや南西アジアが原産地とみられており、日本へは、奈良時代にインド僧の仙那によって中国から持ち込まれたという説もあります。記録に登場するのは江戸時代で、林羅山の「多識篇」に「蚕豆」の名が出てきます。蚕(かいこ)が繭(まゆ)を作る頃においしくなる豆という意味でついたとも言われ、この他、若莢(わかさや)の時に莢(さや)が上(空)を向くことから「空豆」とも書かれます。なお、英名は"broad bean"です。

そらまめの花 日本でそらまめの本格的な栽培が始まったのは、明治時代になってからで、ヨーロッパやアメリカの品種が導入され、試作を重ねるうちに現在の品種の基礎がつくられました。関東以西の冬期も温暖な地方で栽培され、最盛期には全国で4万haの栽培面積がありましたが、最近では激減し、四国と九州の一部で栽培されています。しかし、これら国内栽培の大部分は完熟前の軟らかい豆を食べる野菜としての利用で、乾燥豆については、ほとんどを輸入に頼っており、大半が中国、一部がオーストラリア、ポルトガルなどから輸入されています。

フライビーンズをはじめとする炒り豆菓子の代表的な原料となるほか、甘納豆や餡にも使われ、大粒種を甘く煮てお多福豆が作られます。また、香川県では醤油豆に加工されます。なお、中国料理に欠かせない調味料の豆板醤(とうばんじゃん)は、そらまめを発酵させて作られます。【公益財団法人 日本豆類協会】」

新鮮なものはゆですぎに注意です。炊き込みご飯も、空前を入れるタイミングが早すぎないように、炊き上がる最後の最後に入れると、おいしくいただけます。


(料理上手な人の「そら豆ご飯」の写真をネットから拝借。私が作ったものは、豆が柔らく過ぎましたのでupできませんが、おいしくいただきました。)

2021年5月15日土曜日

敬神祭祀は大和民族のこころ。バグってなんかいません。


 遷却崇神詞(タタルカミヲオシヤルコトバ)

高天之原に神留り坐して、事始め給ひし神漏伎・神漏美の命以て、天之高市に八百萬神等を、神輯へ輯へ給ひ、 神議り議り給ひて、我が皇御孫之尊は、豐葦原の水穂之國を、安國と平けく知し食せと、 天之磐座放ちて、天之八重雲を伊頭の千別きに千別きて、天降し寄さし奉りし時に、 誰の神を先づ遣はし、水穂國の荒振神等を神攘へ攘へ平けむと、神議り議り給ひし時に、 諸神等皆量り申さく、天穂日之命を遣はして平けむと申しき、是を以て天降し遣す時に、 此の神は返言申さざりき、次に遣しし健三熊之命も、父の事に随ひて返言申さず、又遣しし天若彦も、返言申さずて、 高津鳥の殃に依りて、立處に身亡せにき、是を以て天津神の御言を以て、更に量り給ひて、 経津主命・健雷命、二柱の神等を天降し給ひて、荒振神等を神攘ひ攘ひ給ひ、神和し和し給ひて、 語問ひし磐根・樹立・草之片葉をも語止めて、皇御孫之尊を天降し寄さし奉りき、如此く天降し寄さし奉りし四方の國中と、 大倭日高見之國を安國と定め奉りて、下津磐根に宮柱太敷き立て、高天之原に千木高知りて、 天之御蔭・日之御蔭と仕へ奉りて、安國と平けく知し知さむ皇御孫之尊の、天御舎の内に坐す皇神等は、 荒び給ひ健び給ふ事無くして、高天之原に始めし事を、神奈我良も知し食して、神直日・大直日に直し給ひて、 此の地よりは、四方を見霽かす山川の清き地に遷り出で坐して、吾が地と宇須波伎坐せと、 進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備へ奉りて、見明むる物と鏡、翫ぶ物と玉、 射放つ物と弓矢、打斷つ物と太刀、馳せ出づる物と御馬、御酒はの戸高知り、の腹滿て雙べて、 米にも穎にも、山に住む物は、毛の和物・毛の荒物、大野原に生ふる物は、甘菜・辛菜、 青海原に住む物は、鰭の廣物・鰭の狭物、奧津海菜・邊津海菜に至るまでに、横山の如く八物に置き足らはして、 奉る宇豆の幣帛を、皇神等の御心も明に、安幣帛の足幣帛と平けく聞し食して、祟り給ひ健び給ふ事無くして、 山川の廣く清き地に遷り出で坐して、神奈我良鎮り坐せと、稱辭竟へ奉らくと申す

(読み)                                                たかまのはらにかむづまりまして、ことはじめたまひしかむろぎ・かむろみのみこともちて、あまのたけちにやほよろづのかみたちを、かむつどへつどへたまひ、かむはかりはかりたまひて、わがすめみまのみことは、とよはしはらのみづほのくにを、やすくにとたひらけくしろしめせと、あまのいわくらはなちて、あまのやへぐもをいづのちわきにちわきて、あまくだしよさしまつりしときに、いづれのかみをまづつかはし、みづほのくにのあらぶるかみどもをかむはらへはらへむけむと、かむはかりはかりたまひしときにもろもろのかみたちみなはかりまをさく、あめのほひのみことをつかはしてむけむけむとまをしき、ここをもてあまくだしつかはすときに、このかみはかへりごとをまをさざりき、つぎにつかはししかけみくまのみことも、ちちのことにしたがひてかへりごとまをさず、またつかはししあめわかひこもかへりごとまをさずて、たかつとりのわざはひによりて、たちどころにみうせにき、ここをもてあまつかみのみことをもちて、さらにはかりたまひて、ふつぬしのみこと・たけみかづちのみこと、ふたはしらのかみたちをあまくだしたまひて、あらぶるかみどもをかむはらひはらひたまひ、かむやはしやはしたまひて、こととひしいはね・このたち・くさのかきはをもことやめて、すめみまのみことをあまくだしよさしまつりき、かくあまくだしよさしまつりしよものくになかと、おほやまとひたかみのくにをやすくにおとさだめまつりて、したついわねにみやばしらふとしりたて、たかまのはらにちぎたかしりて、あめのみかげ・ひのみかげとつかへまつりて、やすくにとたひらけくしろしめさむすめみまのみことの、あめのみあらかのうちにますすめがみどもは、あらびたまひたけびたまふことなくして、たかまのはらにはじましことを、かむながらもしろしめして、かむなほび・おほなほびになほしたまひてこのところよりはよもをみはるかすやまかわのきよきところにうつりいでまして、あがところとうすはきいませと、たてまつりみてぐらは、あかるたへ・てるたへ・にぎたへ・あらたへにそなへまつりて、みあきらむるものとかがみ、もてあそぶものとたま、いはなつものとゆみや、うちたつものとたち、はせいづるものとみま、みきはみかのへたかしり、みかのはらみてならべて、よねにもかひにも、やまにすむものは、けのにごもの・けのあらもの、おほのはらにおふるものは、あまな・からな、あをうなばらにすむものは、はたのひろもの・さたのさもの、おきつもは・へつもはにいたるまでに、よこやまのごとくやつものにおきたらはして、たてまつるうづのみてぐらをすめがみたちのみこころもあきらかに、やすみてぐらのたるみてぐらとたひらけくきこしめして、たたりたまひたけびたまふことなくして、やまかはのひろくきよきところにうつりいでまして、かむながらしづまりませと、たたへごとをまつらくとまをす


この祝詞のタイトルが怪しかったのか消されちゃいましたが、また書き直しました。バグっているように見えますが、中身は古事記に示されている内容と同じで、すごいエネルギーを感じます私は。


 遷却崇神詞(タタルカミヲオシヤルコトバ)とは、神道における祝詞のひとつです。先の道饗祭(みちあへのまつり)が災禍の予防を主目的とした祀りに対して、 遷却崇神詞は災禍の原因となる神々を祀り、その心を和めて遠方に遷(うつ)すことを目的とした祀りです。


大和民族は敬神祭祀。国つ神である産土神と共に天津神を敬って祭祀を行ってきました。

今はコロナ禍で世界中が大変な目にあっているのですが、まだまだ我欲私欲で無茶苦茶になっています。物質優先のツケが回ってきたようです。


古事記がなぜエネルギーが高いというと、それは神話ではなく神代の時代の事実が書かれているからでしょう。ゲットゲットの前に感謝感謝の精神が先に出てこないと、自分が幸せに豊かになるには、まず先に他人を幸せにしてあげなければ自分の幸せはやってこないことを事実としての古事記が教えてくれています。

神社での祐気取りの本質


祐気取りというのは、神様がいらっしゃる神聖な場所へ、下記の手はず通りに良い気を頂きに行くことです。心身を清め、神様に日々の感謝をささげて願いを伝え、神意を聴きましょう。

ポイントは、「直(なほ)き正しき真心もちて」という素直な赤き心でもって気持ちを込めて実行すること。

一般的な参拝の方法は、

一礼して鳥居をくぐり、参道の端を歩きます。

1.心身を清めます。                                 手水舎で手水の呪「かきながす 大山本(おおやまもと)の五十鈴川(いすずがわ)八百万代(やほよろづよ)の罪はのこらじ」と唱えながら、手と口をすすぎます。

2.お賽銭を滑らせながら入れ(投げ入れてはいけません)鈴があれば1回鳴らして神様に来たことを伝えます。

3.礼拝の基本は、二礼二拍手一礼です。(神様への印を知っている方は印を組みます)住所と名前をお伝えして産土神拝詞や諸神社神拝詞を言っていれば祝詞を奏上し、願いを伝えます。

4.参拝が終わったら、祐気取りの時間です。順番に決まりはないので、神社や他の参拝者の迷惑にならない範囲で実践されたら良いでしょう。

〇御朱印を頂くのは、神様とのつながりを証明するもので、御神体の分身を授かります。

〇境内で深呼吸をして心を鎮めます。(ゆったりとした深呼吸は鎮魂に通じます)

〇ご神木に手を当てて、ご神木の気を少しいただきましょう。

〇太陽を全身に浴び「日の大神様の分魂(わけみたま)を入れ替えさせていただきます。」と申し上げ全細胞のリフレッシュを願います。※AM中でしたら日拝できたらいいです。また、岩などにも手を当てて大地からの気を吸収しましょう。

〇境内に池や川があれば、しばらく水を見つめてみましょう。水には穢れを祓う強い気があります。※水は禊の基本です。

祐気取りで自分の祖神(産土神・先祖)と共にあることを基本とした敬神祭祀を今一度見直し、物質中心の今の風潮に巻き込まれないよう精神生活を充実できたらいいですね。

この昔ながらの日本人の精神文化は、闘争的征服主義・功利的唯物的な世界観・社会観・人生観の西欧文明の民族や、他人の生産を略取し、その所有物を獲得することが一種の本能となって伝統されている大陸系民族の文化とマジコル(交わり凝る)わけにはいきません。

2021年5月12日水曜日

道饗祭(みちあへのまつり)とコロナ退散

 


道饗祭(みちにあへまつり) 祝詞

「高天の原に事始めて、皇御孫の命と、称辞竟へまつる。大八衢にゆつ磐むらの如く塞ります皇神等の前に申さく。八衢彦、八衢姫、久那斗と御名は申して辞竟へまつらくは、根の国、底の国より、麁び、疎び来む物に、相率り、相口会うことなくして、下より行かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守り、日の守りに守りまつり、齊ひまつれと。進る幣帛は、明かるたへ、照るたへ、和たへ、荒たへに備へまつり、神酒は�のへ高知り、�の腹満て並べて、汁にも穎にも、山野に住む物は、毛の和物、毛の荒物、青海原に住む物は鰭の広物、鰭の狭物、奥つ海菜、辺つ海菜に至るまでに横山の如く置きたらはして、進るうづの幣帛を、平らけく聞しめして、八衢にゆつ磐むらの如く塞りまして、御皇孫の命を堅磐に常磐に齊ひまつり、茂し御代に幸へまつりたまへと申す。また親王等、王等、臣等、百官人等、天下公民に至るまでに、平らけく、齊ひたまへと、神官、天つ祝詞の太祝詞事をもちて、称辞竟へまつると申す。」

 (読み)

「たかまのはらにことはじめて、すめみまのみこととたたへごとをまつる、おほやちまたにゆついはむらのごとくさやますすめがみたちのまへにまをさく、 やちまたひこ・やちまたひめ・くなどとみなはまをして、ことをへまつらくは、ねのくにそこのくによりあらびうとびこむものに、あひまじこり、あひくちあふことなくして、したよりゆかばしたをまもり、うへよりゆかばうへをまもり、よのまもり・ひのまもりにまもりまつりいはひまつれと、たてまつるみてぐらは、あかるたへ・てるたへ・にぎたへ・あらたへにそなへまつり、みきはみかのへたかしり、みかのはらみてならべて、しるにもかひにも、やまのにすむものは、けのにごもの、けのあらもの、あをうなばらにすむものは、はたのひろもの・はたのさもの、おきつもは・へつもはにいたるまでに、よこやまのごとくおきたらはして、たてまつるうづのみてぐらをたひらけくきこしめして、やちまたにゆついはむらのごとくさやりまして、すめみまのみことをかきはにときはにいはひまつり、いかしみよにさきはへまつりたまへとまをす、  またみこたち・おほきみたち・まへつぎみたち・もものつかさのひとども、あめのしたのおほみたからにいたるまでに、たひらけくいはひたまへと、かむづかさあまつのりとのふとのりとごとをもちて、たたへごとをへまつらくとまをす」

 (意味)

 高天原にことを始めて、皇御孫のご命令としてお祭りを行わせていただきます。大八衢(いくつにも分かれている道に)に神聖な岩の群れのように塞いでおられる神様がたの前に申しあげること。八衢比古、八衢比売、久那斗とお名前はおっしゃって、お祭りさせていただくことは、「根の国、底の国より荒々しく、気味悪く来たれるものに、交わり口を合わせることなく、下から来れば下を守り、上から来れば上を守り、夜の守り、日の守りに守っていただき、清らかにしていただきたいと、捧げるお供えは、あかるたへ、照るたへ、にぎたへ、あらたへに揃えて、神酒は甕の上までいっぱいに満たせて並べ、汁にも穎にも(意味不明)、山野に住むものは獣のおだやかなもの、獣の荒々しいもの、青海原に住むものは魚の大きなもの、魚の小さなもの、沖の海草、浜辺の海草に至までを、横山のように置き並べて、奉るたくさんのお供えを、すべてにわたってお受け取りになって、八衢に神聖な岩群のように塞いでいただき、御皇孫命を堅い岩のように、永遠の岩のように祝っていただき、栄えている御代に幸いをおたまわり下さい」と申し上げます。「また親王等、王等、臣等、百官人等、天下公民にいたるまでに、すべてにわたってご祝福くださいと、神官が天の祝詞の太祝詞ごとを以って、お祭りさせていただきます。」と申し上げます。

道饗祭(みちあのまつり)とは、 『事典 古代の祭祀と年中行事』吉川弘文館

概要厄神・疫神が京内に入らぬよう、京城の四隅で神祇官の卜部が毎年6月・12月に行った祭祀である。祝詞では八衢比古・八衢比売・久那斗の三神を祀るとする(『延喜式』祝詞)。式次第は不明ですが、「饗(あへ)」を漢字で解釈すると飲食のもてなしをする意で

『令集解』には京城の外から入り来る鬼魅(きみ,鬼や化け物)を京城四隅の路上で祭りもてなすことで、その侵入を防ぐ祭祀であると書かれています。

饗(あへ)を大和言葉の言霊で解すると、「話し合って折合いをつける」ということになるので、飲食でもてなして、折合いをつけて、厄神・疫神・病の奇魑に出て行ってもらう祭と考えます。

「戦う」「打ち勝つ」「暴力でぶっ飛ばす」「だまし討ちにする」的な大陸式の考え方ではありません。

平田篤胤大人は、チマタ(道の分岐点)に鎮座する神へのもてなしが本来の意だとし、(『古史伝』)、さらに祝詞では、前述の三神八衢比古・八衢比売・久那斗を祀ることで疫神を祓っていただくという形式になっています。

の三神は記紀(古事記・日本書紀)に見られないので、おそらく陰陽道の神道化によって発生した神々(正系ではない神々)であろうと感じます。(獣が神饌として上げられているから?)

 しかし、これら三神について平田篤胤大人は、伊邪那岐神が黄泉国で伊邪那美神に追われた際に黄泉平坂を塞いだ石が八衢神であり、これを二柱に分けたものが八衢比古、八衢比売であるとする。また久那斗は、黄泉国から帰った伊邪那岐神が禊をするときに投げ棄てた杖から成った衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)と解釈されています。古史伝』)ので安心します。

『続日本紀』には、宝亀年間(770~781)に諸国に疫病が流行し、疫神祭を行うよう命じた記事が多くみられ、国家として疫病のへの対策が大事となっておりました。衛生状態も悪く人口の密集した都市の生活においては、一度そのような疫病が侵入すれば被害は大きく、また都の中心には天皇がおられることからも、予防祭祀を行う必要性が生じたのでしょう。

我が国では空港や港での検疫に祭祀も行ってほしいくらいです。

(6月の大祓勉強会でやりましょう。)

2021年5月11日火曜日

日の大神の御恵みを頂いて、リセットに備えましょう

 


(先月4月29日の昭和の日。日拝後太陽の御姿)

中国の科学者らがこの6年間、コロナウイルスを含む生物兵器で第3次世界大戦を準備してきたという事が、米国の調査機関が入手した文書を通じて明らかになった。また、英国のデイリーメール紙などが9日報じた内容によると、米国国務省の報告書にはこうした生物兵器が戦争で勝利するため重要になるという主張とともに、これを使用するための完璧な条件と、敵国の医療システムに及ぼす影響まで詳細に記録されているのだそうです。

そして、中国が2015年からコロナウイルスの軍事的可能性を考慮したというこの最新報告では、新型コロナウイルス感染症の原因に関する新たな懸念を呼び起こし、一部の当局者は新型コロナが中国の研究所から流出した可能性があると疑っているというのですまた文書の著者たちは、第1次世界大戦を「化学戦争」とし、第2次世界大戦を「核戦争」と記述し、それらと違って、第3次世界大戦は「生物戦争」になると主張しているとのことです。

この文書ではまた、生物兵器を使用して最大の被害を引き起こす理想的な条件を説明していて、強い日差しが病原菌を損傷し、雨や雪がエアロゾール粒子に影響を与えるので、晴れた日や昼間にこのような攻撃をしてはならないのだそうです。その代わり、夜や夜明け、日が暮れる頃、または曇った天気の日に風向きが安定した状態で使用してこそ、エアロゾールを目標地域に向かわせることができるということも研究されています。

さらに、このような攻撃で病院での治療を必要とする患者を急増させ、敵の医療体系を崩壊できると指摘しています。密にならないようにと注意しても、空からばらまかれたらと思うとゾッとします。

当たり前のように太陽の恩恵をいただいている我々です。さらなる積極的な太陽光線の享受が病原菌を損傷させてくれるとしたら、さらなる感謝気持ちを込めた日拝が命を繋いでくれそうです。

コロナエアロゾール粒子からの自主防衛には日拝は欠かせません。

この度の世界の大祓のようなリセットで、四捨五入させられる条件の一つです。

2021年5月5日水曜日

新型コロナウイルスのインド株


インド株のコロナに感染した人の遺体の野焼き映像をTVで観ているとインド仏教の成れの果てとは云いすぎでしょうが世紀末さながらの映像には肝をつぶします。

ンド株には日本人が持っている白血球から逃れる特性があることが分かったそうです。インド株の感染状況によっては過去最悪の被害が出ることになるかもしれません。

非常事態宣言下のGWでしたが、TVに映し出される観光地の映像に観光ならぬ闇を観る感じです。ワクチン予約まままならない高齢者達の苦労も大変です。

新型コロナウイルスを巡っては欧米の専門家から空気感染を指摘する声が多く、日本においても一部の専門家からマスクの有用性に疑問を投げ掛ける声がありました。マスクの効果は必ずしも無意味というわけではなく、マスクの隙間から入り込んで感染を拡大するという意味合いに近いです。

そのため、空気感染だったとしてもマスクに意味があると言え、手洗い慣行でマスク装着・三密避けての心ある日本人であっても今後も注意が必要だと言えます。

で、何も注意しないでコロナにかかってしまう人は論外ですが、注意していればコロナにかからない人もいるし、注意していてもコロナにかかってしまう人の違いはどうなのでしょう。

清濁混交するこの地上界で生活を営む以上、人間が悪因縁を結んでしまうことは不可避です。また前世或いは先祖の因縁による禍事もあれば、各自の悪感情が招く凶運も受けてしまうこともあります。

神縁・幽助を被るにも、『手洗い・マスク・三密避そ慣行の上、日々清祓に努め、怠ることなく神祭および先祖供養を行ってその悪影響を最小限に止めよ~』だそうです。

 

※エイズが問題になった時にも、アメリカでは公にされませんでしたが電車のつり革からも接触感染するという通信がありました。この度のコロナウイルスの感染は、接触感染・空気感染に自分の感情を引き金となっての黄泉感染もあるとの通信があります。幸せ・お金・生活・豊かさ・使命などの価値判断基準の純化が大事です。 

(上の写真のランプは、岐阜市に住まわれる霊能アーチスト、カガミノリコ画伯。少女のような純真無垢な性格を持つ後期高齢者?カガミノリコ画伯が、ダチョウの卵に穴を開けて「隼人の盾」の文様を施し、魔よけ・災難除けを制作してくださいました。かなり強い魔よけ・災難除けです)


シナにしっぺ

 

南シナ海の係争海域で対峙(たいじ)する中国船舶をめぐり、禁句の英単語を使って「消えうせろ」とツイッターに投稿していたフィリピンのロクシン外相4日、ツイッターで中国の王毅外相に言及し「彼の気分を害し、おわびする」と一応謝罪した。

ドゥテルテ大統領が3日深夜に放送された演説で、「紛争があっても無礼であってはならない。実際、中国には多くの手助けをもらってきた」と大統領は「外交で悪態をつくな」とドウカシテルデェ~発言はするなと閣僚に指示したそうです

外交に最も大切なのは、体面と名誉です。大統領の発言は昔の大和民族が持っていた和通円満の精神を感じます

騙される方が悪く、シナは悪くないと自らを正当化する国柄のシナ。傍若無人のシナ人に対して、ロクシン氏のように「暴言」を吐きたい国が多くあるのでしょう。

しかし、シナの傍若無人さは今に始まった事ではありません。シナはその昔、日本の国を「邪馬台国」と呼び辱め、その女王にこれ以上卑しい奴はいないと「卑弥呼(いよいよ卑しいと呼ぶ)」呼ばれても、さらに「鬼道で衆を惑わす」とまで云われていましても、何の怒りの声も上げず、騒がず、争わず、一歩下がって、聖徳太子が認めたごとく、我が国は「日出ずる国」と自負して一歩もひけを取らなかったのです。

伊弉諾大御神→天照大御神→日嗣の神に受け継がれたご精神をしっかり受け継いでいたのです。

しかし、シナがこのままさらに傍若無人な態度で我が国をだまし討ちにするならば、神のしっぺ返しがあるでしょう。

人間同士国同士のしっぺ返しにはキリがありませんが、神の国に対しての傍若無人な行為発言には神罰が下ります。と願っては自分達が穢れてしまいますが、これ以上にチョッカイを出されれば、いづれ返し矢の神罰はありますか

12月の予定「かんくり 健康回復支援館」

  ー 12 月の「かんくり」健康回復支援館の予定 ー 12月  1日( 日 )  AM9:00 ~地域防災訓練参加のため、治療は10:00より承ります。 12月  7日( 土 ) 終日 健康回復のミーティング(横浜市内) 12月  8日( 日 ) 横浜市内~移動後、治療...